モビール制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:38 UTC 版)
「アレクサンダー・カルダー」の記事における「モビール制作」の解説
『カルダーのサーカス』は、針金人形のバランスをとるための技術的な経験を通して、カルダーの針金彫刻および動く芸術作品(キネティック・アート)の両方に対する関心の始まりになったと見られている。そこには『モビール』(1931年秋にカルダーのアトリエでデュシャンがカルダーの動く彫刻に与えた名前、フランス語で「動き」と「動因」の両方のごろ合わせとなる)制作に必要な要素がすべて含まれていた。たとえばサーカスの針金人形のいくつかは糸からぶら下がるものであった。しかし、モビールはこれに、モンドリアンのアトリエ訪問に触発されてから作った、モーターやあるいはクランクと滑車で操作する、動く純粋な抽象図形の作品を制作した経験が加わっている。 これら機械式モビールは故障の恐れがあり、また決まった動きしかしなかった。そこで1931年の終わりまでに、彼は室内の空気の流れで予測不可能な動きをする、よりデリケートな印象の彫刻制作へと移った。ここで真のモビール(床置き式のスタンディング・モビール)が誕生した。同時期に、彼は金属板が支えあった、動かない、抽象的な彫刻『スタビル』(1932年、前年4月の作品に対してアルプが提案した)を実験している。 カルダーとルイーザは1933年にアメリカに戻り、コネチカット州ロックスベリーに買った18世紀の農家に住んだ。この地で彼らは1935年に長女サンドラを、1939年に次女メアリーを生んだ。カルダーは『サーカス』上演も続けていたが、舞踊家マーサ・グラハムに会い、エリック・サティを起用した彼女のバレエの舞台装置をデザインしている。宙に浮かぶ天体のような作品を作りたいという想いは、1936年の壁掛け式モビールを経て、完全に地面から解放された、天井から吊り下げられる方式のハンギング・モビールとなって結実する。かれはほとんどの作品を黒や白、そしてなにより赤といった基本的な色しか使わずに作ったが、モンドリアン式の幾何学的構成から、より偶然性に富み有機的な表現へと変化していった。 こうしたモビール制作はカルダーの名声を高めた。1937年のパリ万博では、スペイン人民戦線内閣に依頼され、フランコ軍に抵抗する意思を込めてスタビル『水銀の泉』を制作し、スペイン館でピカソの『ゲルニカ』などとともに展示された。また1939年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)の新しい建物のために、複雑で大型のハンギング・モビール『ロブスターの罠と魚の尾』を依頼されるなど、公共空間のための作品・パブリックアート制作が始まった。同時期、家族のために真鍮や銀でできたささやかなジュエリー(装身具)を制作し、その個展も行ったが、決して商品化には応じなかった。 第二次世界大戦中、カルダーは海兵隊に入ろうとしたが断られた。代わりに彫刻制作を続けたが、金属の不足から、彼は木を彫って有機的なフォルムを作り、それらを針金で組み合わせた『星座』のシリーズを作り続けた。この時期以降、カルダーは大きな回顧展をいくつか開くことになった。代表的なものは1943年のニューヨーク近代美術館(MoMA)でのものである。
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