モナ・リザ盗難事件とは? わかりやすく解説

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モナ・リザ盗難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 06:03 UTC 版)

ギヨーム・アポリネール」の記事における「モナ・リザ盗難事件」の解説

1911年8月21日ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》が盗まれたとき、アポリネール共犯疑いサンテ刑務所収容された。これについては、アポリネール(または彼を含む前衛画家詩人)が、一種挑発として《モナ・リザ》(またはルーヴル)を「燃やしてしまえ」と言い放ったこととしばしば関連付けられるが、彼はこうした発言のために窃盗容疑かけられわけではない当時彼の秘書(または雑用係)をしていたベルギー生まれのジェリ・ピエレがルーヴル美術館から古代の小彫像盗み出した事件との関連逮捕されのである。ピエレはすでに数年前ルーヴルから盗んだ彫像2点ピカソ売りつけ、姿をくらましていた。パリ戻ったときにアポリネール秘書として雇われたが、1911年5月に再びルーヴルから彫像盗み出した住み込み秘書であったため、盗品アポリネールアパート置かれていた。この3か月後にモナ・リザ盗難事件が起こったのである犯人逮捕のために国境封鎖するほどの大事件となり、ピエレの窃盗気づいていたアポリネール不安にかられた。ピエレに返却するよう勧めたが、彼はこれに応じどころか、むしろ買い手探してほしいと言うばかりであったアポリネールピカソ相談した買い取った彫像盗品であることを知らなかった彼は愕然とし、セーヌ川投げ捨てようという話にすらなったが、それもためらわれ当時アポリネール寄稿していた『パリ・ジュルナル』紙に頼んで匿名盗品返してもらうことになった。『パリ・ジュルナル』紙はこれを引き受けたが、警察の目に留まりアポリネール家宅捜査受けて逮捕・投獄され、ピカソ召喚された。 アポリネール逮捕に対して釈放求め署名運動起きた署名主導したのはアンドレ・ビイ(Andre Bie)やルネ・ダリーズ(フランス語版)で、他にオクターヴ・ミルボー、アンドレ・サルモン(フランス語版)、アンリ・バルビュスらがアポリネール擁護した。しかしアポリネール反感を持つ者も多く形勢五分五分となった結局は、すでにパリからベルギー逃亡したピエレが予審判事宛にアポリネール無罪証明する手紙送ったため、1週間後釈放されることになったが、アポリネールピカソ外国人であったために、新聞ゼノフォビア的な記事書き立てられ大きな精神的痛手を負うことになった真犯人ビンセンツォ・ペルージャ逮捕され、《モナ・リザ》がルーヴル美術館返却されたのは2年後のことである)。「ラ・サンテ刑務所にて(獄中歌)」は、このとき、文字通り獄中書かれた詩である。また、この事件起こったときにはローランサンの心も離れていたとされる

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モナリザ盗難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 18:27 UTC 版)

ビンセンツォ・ペルージャ」の記事における「モナリザ盗難事件」の解説

1911年8月20日日曜、かつてルーブル美術館モナリザ保護ケース設置仕事したことがあるペルージャ翌日美術館が閉まることを知り中に潜んで隠れていた。月曜の朝に隠れ場所から抜け出たペルージャは、職員が着ることになっていた、画家がはおるようなスモック一種を身につけて周り人間から目立たないようにした。モナリザ掛けられていたサロン・カレが無人であることを見て取ったペルージャは絵を壁から外し周囲から隔絶した階段吹き抜け運んだ。そこで保護ケース額縁取り払いレオナルド木板描いたモナリザスモックのなかに隠してそのまま警備室の前を通ってルーブル美術館の外へ出た警備員ペイル水差し)に汲みにいっており、席を立っていたのである。このときの美術館理事たちは罷免された。 国境こそ封鎖されたが、警察単独犯行説をとらなかったため捜査難航した上に別の美術窃盗犯と関係のあった詩人アポリネール(さらに巻き添えにされたパブロ・ピカソ)を犯人として誤認逮捕するという事件まで起こした一方でペルージャ2年もの間パリ自分アパートメントモナリザ隠していた後、絵を抱えてイタリアへ戻っている。やはりフィレンツェでもアパートメントに絵を置いていたが、次第自分が「わが国誇り象徴」が手元にあることを黙っていることができなくなり結局この地でギャラリーオーナーをしていたアルフレード・ジェリと連絡をとったことが契機となって逮捕されてしまった。ジェリペルージャの話は食い違っているが、モナリザ盗んだ男がその「祖国」に絵を帰還させたことの報酬期待していて売却持ちかけたことは明らかだった。そしてジェリによればウフィッツィ美術館館長だったジョヴァンニ・ポッジが呼ばれ、この男が絵を本物だと証明した。そして2人は「保護」のため絵画手に入れると警察連絡をいれ、ペルージャ泊まっていたホテル逮捕された。 盗まれ絵画イタリア中で披露され新聞一面にその帰還歓ぶ言葉並んだ後、1913年ルーブル返却された。ペルージャも六ヶ月という短い期間で牢から出てきており、第一次世界大戦ではイタリア軍兵士として従軍した結婚して3人の子をもうけ、フランス戻った後は塗料庫を開いている。ペルージャ1925年10月8日フランスのアンヌマスで亡くなった。その死はメディアで大きく報道されたわけではなく死亡記事別のビンセンツォ・ペルージャ1947年フランスで亡くなったときに間違って出されただけだったモナリザ盗まれ100年後の2011年8月21日出身地であるイタリアドゥメンツァペルージャ英雄として讃える演劇上演された。

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