モナ・リザ盗難事件
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「ギヨーム・アポリネール」の記事における「モナ・リザ盗難事件」の解説
1911年8月21日にルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》が盗まれたとき、アポリネールは共犯の疑いでサンテ刑務所に収容された。これについては、アポリネール(または彼を含む前衛画家や詩人)が、一種の挑発として《モナ・リザ》(またはルーヴル)を「燃やしてしまえ」と言い放ったこととしばしば関連付けられるが、彼はこうした発言のために窃盗容疑をかけられたわけではない。当時彼の秘書(または雑用係)をしていたベルギー生まれのジェリ・ピエレがルーヴル美術館から古代の小彫像を盗み出した事件との関連で逮捕されたのである。ピエレはすでに数年前にルーヴルから盗んだ彫像2点をピカソに売りつけ、姿をくらましていた。パリに戻ったときにアポリネールの秘書として雇われたが、1911年5月に再びルーヴルから彫像を盗み出した。住み込みの秘書であったため、盗品はアポリネールのアパートに置かれていた。この3か月後にモナ・リザ盗難事件が起こったのである。犯人逮捕のために国境を封鎖するほどの大事件となり、ピエレの窃盗に気づいていたアポリネールは不安にかられた。ピエレに返却するよう勧めたが、彼はこれに応じるどころか、むしろ買い手を探してほしいと言うばかりであった。アポリネールはピカソに相談した。買い取った彫像が盗品であることを知らなかった彼は愕然とし、セーヌ川に投げ捨てようという話にすらなったが、それもためらわれ、当時、アポリネールが寄稿していた『パリ・ジュルナル』紙に頼んで、匿名で盗品を返してもらうことになった。『パリ・ジュルナル』紙はこれを引き受けたが、警察の目に留まり、アポリネールは家宅捜査を受けて逮捕・投獄され、ピカソも召喚された。 アポリネールの逮捕に対して、釈放を求める署名運動が起きた。署名を主導したのはアンドレ・ビイ(Andre Bie)やルネ・ダリーズ(フランス語版)で、他にオクターヴ・ミルボー、アンドレ・サルモン(フランス語版)、アンリ・バルビュスらがアポリネールを擁護した。しかしアポリネールに反感を持つ者も多く、形勢は五分五分となった。結局は、すでにパリからベルギーへ逃亡したピエレが予審判事宛にアポリネールの無罪を証明する手紙を送ったため、1週間後に釈放されることになったが、アポリネールもピカソも外国人であったために、新聞にゼノフォビア的な記事を書き立てられ、大きな精神的痛手を負うことになった(真犯人ビンセンツォ・ペルージャが逮捕され、《モナ・リザ》がルーヴル美術館に返却されたのは2年後のことである)。「ラ・サンテ刑務所にて(獄中歌)」は、このとき、文字通り、獄中で書かれた詩である。また、この事件が起こったときには、ローランサンの心も離れていたとされる
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モナリザ盗難事件
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「ビンセンツォ・ペルージャ」の記事における「モナリザ盗難事件」の解説
1911年8月20日の日曜、かつてルーブル美術館でモナリザの保護ケース設置の仕事をしたことがあるペルージャは翌日は美術館が閉まることを知り、中に潜んで隠れていた。月曜の朝に隠れ場所から抜け出たペルージャは、職員が着ることになっていた、画家がはおるようなスモックの一種を身につけて、周りの人間から目立たないようにした。モナリザが掛けられていたサロン・カレが無人であることを見て取ったペルージャは絵を壁から外し、周囲から隔絶した階段吹き抜けに運んだ。そこで保護ケースや額縁を取り払い(レオナルドが木板に描いた)モナリザをスモックのなかに隠して、そのまま警備室の前を通ってルーブル美術館の外へ出た。警備員は水をペイル(水差し)に汲みにいっており、席を立っていたのである。このときの美術館の理事たちは罷免された。 国境こそ封鎖されたが、警察は単独犯行説をとらなかったため捜査は難航した上に別の美術窃盗犯と関係のあった詩人のアポリネール(さらに巻き添えにされたパブロ・ピカソ)を犯人として誤認逮捕するという事件まで起こした。一方でペルージャは2年もの間パリの自分のアパートメントにモナリザを隠していた後、絵を抱えてイタリアへ戻っている。やはりフィレンツェでもアパートメントに絵を置いていたが、次第に自分が「わが国の誇りの象徴」が手元にあることを黙っていることができなくなり、結局この地でギャラリーのオーナーをしていたアルフレード・ジェリと連絡をとったことが契機となって逮捕されてしまった。ジェリとペルージャの話は食い違っているが、モナリザを盗んだ男がその「祖国」に絵を帰還させたことの報酬を期待していて売却を持ちかけたことは明らかだった。そしてジェリによれば、ウフィッツィ美術館の館長だったジョヴァンニ・ポッジが呼ばれ、この男が絵を本物だと証明した。そして2人は「保護」のため絵画を手に入れると警察に連絡をいれ、ペルージャは泊まっていたホテルで逮捕された。 盗まれた絵画はイタリア中で披露され、新聞の一面にその帰還を歓ぶ言葉が並んだ後、1913年にルーブルへ返却された。ペルージャも六ヶ月という短い期間で牢から出てきており、第一次世界大戦ではイタリア軍の兵士として従軍した。結婚して3人の子をもうけ、フランスに戻った後は塗料庫を開いている。ペルージャは1925年10月8日にフランスのアンヌマスで亡くなった。その死はメディアで大きく報道されたわけではなく、死亡記事も別のビンセンツォ・ペルージャが1947年にフランスで亡くなったときに間違って出されただけだった。 モナリザが盗まれて100年後の2011年8月21日、出身地であるイタリアのドゥメンツァでペルージャを英雄として讃える演劇が上演された。
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