モアイの時代とは? わかりやすく解説

モアイの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:16 UTC 版)

イースター島」の記事における「モアイの時代」の解説

ジャレド・ダイアモンドによれば7世紀8世紀頃に、アフプラットホーム状に作られた石の祭壇作り始まり遅くとも10世紀頃にはモアイ作られるようになったとされる。他のポリネシア地域違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵脅威が全くなく、加工しやすい軟らか凝灰岩大量に存在していたことである。採石中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前あらゆる段階石像が、散乱する彫る道具とともに残されている。最初1人酋長の下、1つ部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族集落ができ、アフモアイ作られていったモアイ比較加工しやすい素材である凝灰岩を、玄武岩黒曜石作った石斧用い製作されていった考えられており、デザイン時代につれ変化していった。第1期は人の姿に近いもので下半身作られており、第2期下半身がなく細長い手をお腹辺り組んでいる。第3期は、頭上赤色灰石作られた、プカオラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。第4期になっていわゆる一般にモアイといって想像する形態全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩伸びた耳、尖った顎、一文字口など)を備えようになった18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器鉄器存在確認されていない当時作られモアイ墳墓石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡数多く残されているが、この時期までが先史社会考えてよく、ラパヌイ社会このあと転換期をむかえる。 よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確に集落を守るように立てられている。祭壇の上建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。 現在、アフ立っている全ての像は、近年になって倒れていたもの立て直したのである。 島の東端にある、島最大遺跡アフ・トンガリキ」(アフ長さ100mの上には、高さ5m超える15体のモアイ立ち並んでいるが、これも1994年周辺倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量耐えるクレーン使って立て直したのである過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術知識がなく、モアイ南アメリカからやって来た人々の力で建てられたという仮説有力だった。しかし島民遺骨DNAには、島外起源遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイ島民自力建設し移動させたことがわかっている。

※この「モアイの時代」の解説は、「イースター島」の解説の一部です。
「モアイの時代」を含む「イースター島」の記事については、「イースター島」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モアイの時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モアイの時代」の関連用語

モアイの時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モアイの時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイースター島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS