メディナ期における神の自己主張の実際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:35 UTC 版)
「ナスフ」の記事における「メディナ期における神の自己主張の実際」の解説
メディナ期に入ると、神は啓示の中で多くの自己認証をすることとなった。神は、「わたしが神であることに、疑いを抱く者やわたしに敵対する者は地獄に行く」とくりかえし説いている。「私を信じて、敵と戦って死ぬものは、天国に行くでしょう。あなたがたは奴隷です。神に帰依しなさい、疑ってはならない」と説いている。信者は、啓示を記録することで、多くの矛盾や、歴史的な間違いを記すこととなったが、神は無謬であるとの観点から、その後の歴史において、好意的な解釈学が発展している。そうしたものの一つに「挑戦」ということがある。 「挑戦」と言われている自己認証とは、神が、不信仰者に「一章でもいいからすぐれた詩を作って、私たちの前に持って来てみよ」と投げかけた啓示を指している。「誰も作れないだろう、だから、ムハンマドの啓示は神からのものであることが証明されたのだ」、と神が主張しているので、挑戦と呼ばれている。 しかし、メディナ期の啓示の神は、平凡な散文の詩作しか啓示していない。よく見るとこの言葉は、メディナ期の啓示の神が、メッカ初期の威厳に満ちた章を、自己主張の切り札にしているだけと見ることが出来る。 メッカ初期において、神は、サジウ形式の荘厳なる詩文で啓示をしていた。神は、自分が神であることも主張してはいなかった。そのことから考えられることは、メディナ時代において、神が、自らの啓示において自己主張を必要としないためには、メッカ初期のサジウ形式の詩文によって啓示をする必要があると考えられる。メッカ初期のサジウ形式の詩文よって、神が、「神は啓示を破棄するときがある」と、荘厳な詩文で啓示を下したときに、誰もが疑うことのない神の証明が成立するようだ。 それを狙ってかどうかは不明であるが、メディナ期の散文の啓示の主が、メッカ初期の神的な啓示をまねて詩を作ったと思われる章があるとされる(第110章)。しかしそれは、訳者によれば、明らかな違いのある一般的な作品であるとされている。また、訳者によれば、アラビア語を解する人にしか正確な評価はわからない詩文もあるという。それは、一見、最初期の啓示のように見えるけれど、実は、表面的な形を整えただけ、という啓示があるとされる(第109章)。メディナ期に啓示された神の自己認証とは、メッカ初期の啓示の神聖さを利用して、見えない存在が、「自分は神である」と自己主張したものであるようだ。その当時、神や天使のことを、啓示の時に見ることのできる人は、いなかった。 我ら(アッラー)にしてみれば、奇跡を見せろというのならば、いくらでもしるし(奇跡)をムハンマドにやらせることは簡単だ。しかし、今回は、あえて奇跡を起こさないことにした、という啓示がある。なぜかというと、一旦奇跡を見せた場合、それを信じない者には罰を与えなければならないからだ。アラビア人は滅ぼしたくない、という理由が述べられている。 ムハンマドの知られたくない心の秘密を暴いて、神は彼をおそれさせた、という章句がある。(33章51)霊の姿が見えないムハンマドには、それを信じるしかなかった。 神は、啓示の中で、ムハンマド夫婦の秘事をあばいて、「ムハンマドの思っていることは、全部知られている」ということや、神は、ムハンマドに「自分の欲望を節制してはならない」と命じる啓示を下した。また神は、「ムハンマドの行動を制限しようとする妻を、わたしは地獄に落とす」ということや、「私は、そんな妻とは離婚させるだろう。代わりの良い娘はいる」、と神は啓示されている。 宗教的には、神の真実の啓示には、永遠性があり、矛盾や歴史的な過ちはないと見られている。しかし、神は、メッカ初期の啓示と、メディナ期の啓示には大きな矛盾を付与したとされた。矛盾した啓示が並立しているムスハフを、全体として真理として受け入れることが、イスラーム教の信者が、神に絶対帰依する前提となっている。そして、矛盾を有する絶対的聖典を否定することはできない。しかし、解釈次第では、彼らは、矛盾している神の啓示のどちらか一方を破棄することが赦されているようだ。
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