マーブ・リービーとジム・ケリーの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 02:59 UTC 版)
「バッファロー・ビルズ」の記事における「マーブ・リービーとジム・ケリーの時代」の解説
USFLが消滅した結果、ケリーは1986年にチームに入団した。この年のシーズン途中2勝7敗となった時点でチームはハンク・ブローフヘッドコーチを解任して元カンザスシティ・チーフスのヘッドコーチだったマーブ・リービーを起用した。アンドレ・リード、ブルース・スミス、優秀なオフェンシブラインマンでチームの戦力は充実してきていた。1988年にドラフトでサーマン・トーマスが加入、その後4年連続でAFC東地区優勝を果たした。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 上から、RBのサーマン・トーマス、WRのアンドレ・リード、ディフェンスラインのブルース・スミス 1988年は、最初の12試合で11勝し、第12週に8年ぶりの地区優勝を決めて、12勝4敗でシーズンを終えたが、AFCチャンピオンシップゲームでシンシナティ・ベンガルズに2-10で敗れた。 1989年はブルース・スミスが契約でもめ、さらに薬物問題で出場停止処分も受けた。チームは前半8試合を6勝2敗で折り返したが、シーズン後半の8試合で3勝5敗、シーズン5勝11敗のニューイングランド・ペイトリオッツ、3勝13敗のアトランタ・ファルコンズにも敗れた。最終週のニューヨーク・ジェッツとの対戦で37-0と圧勝したものの、クリーブランド・ブラウンズとのディビジョナルプレーオフでは、残り9秒にロニー・ハーモンがTDパスを落球、続くプレーで、ケリーのパスがクレイ・マシューズ・ジュニアにインターセプトされ、30-34で敗れた。 1990年からビルズはノーハドルオフェンスという新しいオフェンススタイルを生み出した。チームは13勝3敗でプレーオフに進出、そして初のスーパーボウル出場を決めて、ニューヨーク・ジャイアンツと対戦した。この試合はリーグ最多得点のビルズとリーグ最少失点のジャイアンツの対決となった。ジャイアンツはボールコントロールオフェンスに徹してビルズのオフェンス時間を減らす作戦に出た。またヘッドコーチのビル・パーセルズと、ディフェンスコーディネーターのビル・ベリチックによって有効なディフェンスが取られた。残り8秒で19-20とリードされた状態で最後47ヤードのFGをスコット・ノーウッドに狙わせたが、キックは大きく右に外れてしまった (Wide Right)。 1991年は、13勝3敗でトーマスが最優秀攻撃選手に選ばれた。この年もプレーオフを勝ち上がり、第26回スーパーボウルでワシントン・レッドスキンズと対戦したが、前半終了時点で0-24とリードされ最終的にも24-37で敗れた。 1992年は、マイアミ・ドルフィンズに地区優勝を明け渡し、ケリーがレギュラーシーズンの最終戦で負傷してしまい、プレーオフを控えQBのフランク・ライクで戦うこととなった。初戦でリーグ3位のディフェンスを誇るヒューストン・オイラーズと対戦し、一時は3-35と大量リードされながらも、NFL史上最多得点差からの逆転勝利を果たした。さらに敵地でスティーラーズ、ドルフィンズを破り、3年連続スーパーボウル出場を決めた。しかし第27回スーパーボウルでは9回のターンオーバー(インターセプト4回、ファンブル5回)を喫してダラス・カウボーイズに17-52で敗れた。試合終了間際にビルズがファンブルしたボールをリカバーしたレオン・レットがボールを拾いタッチダウンする直前にパフォーマンスをしていたところ、ドン・ビービーが後ろから追いついてボールを掻き出して阻止しなければ、スーパーボウルワースト記録となる59失点をするところであった。 1993年、2年ぶりに地区優勝を果たし、プレーオフを勝ち上がり史上初の4年連続スーパーボウル出場を果たした。第28回スーパーボウルでは2年連続、ダラス・カウボーイズと対戦、ハーフタイムでは13-6とリードしたが、後半トーマスがファンブルし、そのボールをリターンタッチダウンされるなどして13-30で逆転負けした。1994年は、7勝9敗と負け越しプレーオフ出場を逃した。 1995年、10勝6敗で地区優勝を果たしプレーオフに出場した。ドルフィンズを破った後、第30回スーパーボウルに出場したスティーラーズに21-40で敗れた。1996年、ニューイングランド・ペイトリオッツに続いて地区2位となりプレーオフに出場したが、チーム創設2年目の新興チーム、ジャクソンビル・ジャガーズに敗れた。シーズン終了後、ケリーは引退した。トーマスもこの年エースRBの座を若いアントワン・スミスに明渡した。1997年、ケリーを失ったチームは6勝10敗に終わり、リービーコーチも引退した。
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