マルコーニ時代 - 倒産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 07:52 UTC 版)
「ビモータ」の記事における「マルコーニ時代 - 倒産」の解説
1989年にマルティーニはジレラに移籍し、ピエルルイジ・マルコーニ(Pierluigi Marconi)がチーフエンジニアとなった。1990年には、マルコーニが学生時代から関わっていたテージの公道用市販車版であるテージ1Dをコローニェショーで発表して技術的に注目され、マルティーニ時代からのDBシリーズやYBシリーズを着実に育てあげるなど、精力的に活動した。しかし一方で、1993年には創業者で最後まで残っていたモーリが去り、テージ1Dが商業的な成功を収めないまま1994年に生産終了すると、その頃を転機に、ビモータの経営方針に変化が訪れた。 モーリが去った後の新経営陣は、高品質ながら少数生産というそれまでの方針を改め、商業的成功を目標に生産数増加を目指し、それまでのビモータとは違った路線の車種も充実させるようになった。従来通りの路線では、ヤマハとのエンジン供給契約が切れた後に、スズキとの協力関係のもとでSB6を発売し、単一車種としてはビモータ最多の販売台数を記録し、工場を拡張するほど販売が好調であった。新たな路線としては、当時人気が出始めた大型ネイキッドとしてDB3マントラを発売し、以前は参入を否定していたシングルスポーツのジャンルにもBB1スーパーモノを投入した。だがSB6とは違い、DB3とBB1は商業的には成功せずに終わった。 また、テージ1Dなき後の技術と独自性を象徴するものとして、ビモータは1996年コローニェショーにて500Vデュエを発表し、翌1997年に発売した。ビモータ初の自社開発エンジンとなる500cc2ストロークV型2気筒を搭載して「全ビモータ製」を謳った500Vデュエは予約が殺到するほどの前評判だった。しかし、実際に発売されるとシリンダー内直噴インジェクションの技術的問題が表面化して商業的な失敗を招き、ビモータは大きな負債を抱えた。この失敗で1998年には工場はほとんど稼動しない状態に陥り、この時期にマルコーニを含めた多くのスタッフがビモータを去った。 1999年に、ラベルダを復活させた実績を持つフランチェスコ・トニョン(Francesco Tognon)のもとで生産を再開し、マルコーニが残したSB8Rの販売で復活を目指した。2000年には、リーバイスがスポンサーとなって、SB8Rのホモロゲーション車種であるSB8Kで世界スーパーバイク選手権に参戦し、アンソニー・ゴバートのライディングにより出場2戦目で早くも優勝しその技術力の高さを見せつけたが、リーバイスがシーズン途中で撤退してしまいチームは空中分解した。市販車のSB8Rも商業的な成功には繋がらず、会社は倒産に至った。
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