マオリ戦争とは? わかりやすく解説

マオリ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:33 UTC 版)

コングリーヴ・ロケット」の記事における「マオリ戦争」の解説

マオリ戦争の終結期にイギリス陸軍マオリ防御陣地に対して火砲砲撃同時にコングリーヴ・ロケット投入した判明したことは、初歩的な塹壕戦演習のような状況でもロケット砲撃効果大きく鈍らせるのに十分であり、火砲同様にコングリーヴ・ロケット実質的な効果を持たなかったことである。

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マオリ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:36 UTC 版)

ニュージーランドの歴史」の記事における「マオリ戦争」の解説

詳細は「マオリ戦争」を参照 ワイタンギ条約締結以降ヨーロッパ人移民爆発的に増加したニュージーランドでの農牧業推進していくためヨーロッパ人マオリから次々と土地買い上げていった。特に人口密度低かった南島ではほとんど抵抗無く土地手に入れることに成功し1864年時点南島におけるマオリ所有する土地全面積の1%となっている。こうした状況からヨーロッパへ隷属化を危惧したマオリたちによって土地取引反対運動持ち上がり始めた。これがマオリ戦争の発端となった。特にワイカトではこれをさらに推し進めたマオリ王擁立運動へと発展し激し抵抗見せるようになる1859年3月土地取引賛成派マオリ首長テイラが、共同所有を持つ土地独断イギリス政府売却する動き見せたため、反対派マオリ首長ワイレム・キンギとの間に争い勃発する。これがマオリ戦争を全国規模拡大することになったタラナキの地で1,500人のマオリ戦争加わり、3,000人のイギリス政府軍と衝突した1861年4月休戦呼びかけられて一時戦闘おさまったが、1863年にはワイカトへと広がりゲリラ的戦争繰り広げられた。ジョージ・グレイ英語版)は12,000人のイギリス・植民地政府連合軍と、イギリス側付いた1,000人のマオリ軍を率いてこれの鎮圧あたったマオリ地の利活かした戦闘で数の差を埋めていたが次第戦局政府軍優勢となっていった。1864年3月マオリ勇将レウィ・マニアポトが討たれる残ったマオリワイカト追われ北島中西部へと逃げ込んでいった。小康状態になりつつも断続的な戦争続きキンギ降伏する1872年まで戦争続き1881年正式な和平交渉をもってマオリ戦争は終結した死者数政府側が1,000人、マオリ側が2,000人を数えた戦争の勃発受けて政府1863年反乱鎮圧法を制定しマオリ権利一時的に停止、さらに翌年にはニュージーランド入植地法を制定し戦争関係者マオリ土地没収したマオリにとって政府軍との戦争は自らの土地を守る自衛的なものであったが、反乱民のレッテルを貼られ、先祖伝来土地没収される結果終わった。マオリ戦争の結果ワイカト(1,205,000エーカー)、タラナキ(1,275,000エーカー)、タウランガ738,000エーカー)などいくつも地域政府による土地没収が行われた。

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