マオリ戦争
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「コングリーヴ・ロケット」の記事における「マオリ戦争」の解説
マオリ戦争の終結期に、イギリス陸軍はマオリの防御陣地に対して火砲の砲撃と同時にコングリーヴ・ロケットを投入した。判明したことは、初歩的な塹壕戦の演習のような状況でもロケットや砲撃の効果を大きく鈍らせるのに十分であり、火砲同様にコングリーヴ・ロケットは実質的な効果を持たなかったことである。
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マオリ戦争
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「ニュージーランドの歴史」の記事における「マオリ戦争」の解説
詳細は「マオリ戦争」を参照 ワイタンギ条約締結以降、ヨーロッパ人の移民は爆発的に増加した。ニュージーランドでの農牧業を推進していくため、ヨーロッパ人はマオリから次々と土地を買い上げていった。特に人口密度の低かった南島ではほとんど抵抗無く土地を手に入れることに成功し、1864年の時点で南島におけるマオリの所有する土地は全面積の1%となっている。こうした状況からヨーロッパへの隷属化を危惧したマオリたちによって土地取引反対運動が持ち上がり始めた。これがマオリ戦争の発端となった。特にワイカトではこれをさらに推し進めたマオリ王擁立運動へと発展し、激しい抵抗を見せるようになる。 1859年3月、土地取引賛成派のマオリ首長テイラが、共同所有権を持つ土地を独断でイギリス政府へ売却する動きを見せたため、反対派のマオリ首長ワイレム・キンギとの間に争いが勃発する。これがマオリ戦争を全国規模に拡大することになった。タラナキの地で1,500人のマオリが戦争に加わり、3,000人のイギリス政府軍と衝突した。1861年4月に休戦が呼びかけられて一時戦闘はおさまったが、1863年にはワイカトへと広がり、ゲリラ的な戦争が繰り広げられた。ジョージ・グレイ(英語版)は12,000人のイギリス・植民地政府連合軍と、イギリス側に付いた1,000人のマオリ軍を率いてこれの鎮圧にあたった。マオリは地の利を活かした戦闘で数の差を埋めていたが次第に戦局は政府軍が優勢となっていった。1864年3月にマオリの勇将レウィ・マニアポトが討たれると残ったマオリはワイカトを追われ、北島中西部へと逃げ込んでいった。小康状態になりつつも断続的な戦争は続き、キンギが降伏する1872年まで戦争は続き、1881年の正式な和平交渉をもってマオリ戦争は終結した。死者数は政府側が1,000人、マオリ側が2,000人を数えた。 戦争の勃発を受けて政府は1863年に反乱鎮圧法を制定し、マオリの権利を一時的に停止、さらに翌年にはニュージーランド入植地法を制定して戦争関係者のマオリの土地を没収した。マオリにとって政府軍との戦争は自らの土地を守る自衛的なものであったが、反乱民のレッテルを貼られ、先祖伝来の土地を没収される結果に終わった。マオリ戦争の結果、ワイカト(1,205,000エーカー)、タラナキ(1,275,000エーカー)、タウランガ(738,000エーカー)などいくつもの地域で政府による土地の没収が行われた。
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