ポルノ映画の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 14:40 UTC 版)
「ロン・ジェレミー」の記事における「ポルノ映画の経歴」の解説
ジェレミーは教職(彼の自称「最後の切り札」)を離れ、ニューヨークで役者を目指した。そして「飢えたオフ・ブロードウェイ」の役者がいかに稼げないかを学んだと言う。彼の当時のガールフレンドが彼の写真を雑誌社に送り、ジェレミーは「Playgirl誌」のモデルを務め、その後自立する手段としてポルノ映画界へと転身した。彼のポルノ映画デビュー作は、チャック・ヴィンセント監督の『Snap 』(後に『COD 』と改題)という映画である。彼は祖母ローズが、ロンと連絡をとろうとする人々の電話に悩まされたため、ファースト・ネームとミドル・ネームの芸名を利用し始めた。 彼の祖母ローズ(当時電話帳にR・ハイアットと掲載されていた)は、Playgirl誌でジェレミーを見た求婚者によって常時悩まされていた。「彼女は、一ヶ月間アパートから出て行かなければなりませんでした。」と、ロンは打ち明けている。「『お前がこのあからさまでクレージーな仕事をしたいなら、それはそれでいい。だが、お前が再び家族の姓を使ったなら、私はお前を断固阻止するぞ。』と父は私に言いました。」 ジェレミーは、1979年の『USAハードパワー (Olympic Fever) 』の撮影での、ある事件の後、同僚ビル・マーゴールドによって「ヘッジホッグ」のあだ名を授けられた。ジェレミーはこの映画の撮影のためにニューヨークから飛び立つ際、暖かい気候を予想してTシャツと短パンを着用していた。カリフォルニア州の山地に近い、アローヘッド湖にあるロケ現場にオートバイで向かう間、天候は彼を低体温症といっていいほどに震え上がらせる、猛吹雪状態へと悪化した。セットに到着すると、ジェレミーは直ちに身体を暖めるため、熱いシャワーを浴びさせられた。浴び終わった時、彼の皮膚は両極端の温度のためピンク色になり、体毛は逆立ったままであった。マーゴールドはジェレミーの状態を見て、「友よ、君はヘッジホッグ(ハリネズミ)だ。二足歩行で言葉を喋るヘッジホッグだよ。」とコメントした。一般に想像されているのとは違い、このあだ名はジェレミーの後の体重増加とは無関係であり、その時の彼の身体の状態が正にその通りだったため、名付けられたのである。 ジェレミーは、「ポルノ映画最多出演者」としてギネスブックに掲載されている。Internet Adult Film Database (IAFD) は、彼が出演した1900本以上の映画と監督した276本の映画をリストアップしている。比較として、AVNトップ50ポルノスターでジェレミーに続く高い位置にランクされている、ジョン・ホームズがクレジットされた作品としてIAFDがリストしているのは418本のみである。(数字は全て2008年5月29日現在) 1993年「スーパーエロブラザーズ1&2」のマリオを演じた。 以前は業界内で「一部の女優が演じたがらない変態的行為は、獣姦とサドマゾヒズムとジェレミーとのセックスだ」というジョークが広まった。しかし、彼はその後ポルノ産業への貢献を認められ、AVN殿堂とXRCO殿堂双方のメンバーとなった。また、その功績により、エジソン (ニュージャージー州) のAdult Star Path of Fameの最初の41人のメンバーに名を連ねた。新世紀に入り、彼のスター性と、バイアグラなどの薬に頼らない男優と仕事をしたいという、多くの女優の要望が重なり、彼の人気は復活を見せている。
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