ホーエンフリートベルクの戦闘とは? わかりやすく解説

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ホーエンフリートベルクの戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 17:28 UTC 版)

ホーエンフリートベルクの戦い」の記事における「ホーエンフリートベルクの戦闘」の解説

午前7時頃、オーストリア軍はようやく兵の展開を行なっているところだった。北でザクセン軍がプロイセン軍交戦開始したとき、カール公子砲戦の音を聞いても、ザクセン軍がシュトリーガウを砲撃しているのだと思って適切な対応を取らずプロイセン軍攻撃気付くまでに数十分から1時間時間無駄にした。この遅れは致命的であった。いまやオーストリア軍ザクセン軍の敗走受けて単独優勢なプロイセン軍交戦しなければならなくなったからである。一方大王ザクセン軍の撃破得た時点会戦勝利を確信していた。ザクセン軍の予想以上に早い敗走知らせ受けて大王はまだ北に向かおうとしていた後続部隊西へ転進命じた。 シュトリーガウとホーエンフリートベルクの間には、シュトリーガウを中心として半円を描くように、北から順にピルグラムスハイン、ギュンタースドルフ、トーマスヴァルダウ、ハルベンドルフのがあり、いまオーストリア軍後ろ3つのの間に展開していた。ギュンタースドルフにはオーストリア軍擲弾兵拠って左翼守り形成し、ギュンタースドルフ‐トーマスヴァルダウ間に歩兵戦列が並び、トーマスヴァルダウからハルベンドルフの間に騎兵展開したプロイセン軍左翼ナッサウ騎兵軍団を置き、中央歩兵戦列を形成してオーストリア軍への攻撃前進試み右翼ではブランケンゼーの旅団押さえていた。しかし一方でプロイセン軍ではザクセン軍への攻撃から部隊多くがまだ戻っていなかった。加えてシュトリーガウ川にけた損壊した影響後方進んでいた部隊の展開に遅れが生じていた。 このような中、カール公子はまず右翼騎兵前進させてプロイセン軍左翼突こう試みたオーストリア騎兵対応するナッサウ騎兵軍団は、プロイセン軍騎兵戦力多くザクセン攻撃投じられていたために劣勢であり、本来ならオーストリア軍主導権を握るべき局面であったナッサウ軍団先鋒であるキョウ旅団に、オーストリア軍のベルリヒンゲン率い騎兵旅団先手をとって突撃かけようとしたところ、その右側面に、遅れて渡河したツィーテンのフザール連隊が逆突撃をかけ、ベルリヒンゲンの突撃腰砕けになったそのあとナッサウ騎兵軍団突撃開始すると、すでにそのころトーマスヴァルダウがポレンツのプロイセン軍歩兵によって占領されていたことから、オーストリア軍騎兵左翼からも攻撃を受け、その結果オーストリア騎兵部隊打ち破られ敗走した午前8時ごろ、右翼敗北決定したなか、オーストリア軍歩兵戦列はプロイセン軍歩兵の攻撃受けていた。大王戦列最左翼に各連隊から抽出した5つ擲弾兵大隊構成されたポレンツ旅団当て攻撃焦点定めることで左からオーストリア軍巻きろうとしていた。プロイセン軍攻撃前進によってオーストリア軍第一戦列を後退させたが、しかし依然として北で戦った歩兵戻ってこないので兵力不足し戦列中央薄くなっていた。オーストリア軍はここに反撃機会見出したオーストリア軍中央の抵抗すこぶる頑強であり、正面にいたハッケ連隊ベーヴェルン連隊大損害を被った。さらにまずいことに、ポレンツ旅団に引きずられてプロイセン軍戦列も左に傾きベーヴェルン連隊と、ギュンタースドルフを抑えている部隊繋がっているブラウンシュヴァイク公子の旅団属していたために動かなかったハッケ連隊とのあいだにギャップ生じたオーストリア軍はこのギャップを突くために兵を繰り出そうとしていた。 バイロイト竜騎兵連隊はこの局面において大い活躍したことで有名になり、のちには軍歌にもなった。到着遅れていたゲスラー騎兵旅団属すバイロイト竜騎兵連隊が、ちょうどこのときプロイセン軍歩兵戦後方到着したのである。この連隊通常の倍の10個中隊で構成され小規模な旅団匹敵する戦力持っていた。 バイロイト竜騎兵連隊突撃主導したのが誰だったかには諸説ある。旅団率いていたゲスラーか、連隊長だったシュヴェリーンか、連隊大尉だったカゾットか、いずれにせよ、この連隊味方ギャップ埋め、さらに次の行動移った午前8時15分ごろ、バイロイト竜騎兵連隊オーストリア軍歩兵戦正面に対して突撃敢行した。この場においてオーストリア軍騎兵援護はなく、突撃妨害するすべがなかった。連隊はまず戦列前に出ていたオーストリア軍擲弾兵部隊突撃した600歩の距離から助走始め、やがて全速力突っ込んでくる竜騎兵に、擲弾兵果敢にその場所を維持し20歩の距離で一斉射撃行った止められなかった。擲弾兵の列を突破した竜騎兵そのまま後方主戦列に突入し粉砕した20分後、オーストリア軍戦列崩壊させた後、この連隊だけで獲得した捕虜は2,500人、砲5門、軍旗67本を数えた対して連隊損害94であった午前9時、オーストリア軍は総退却移行した

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