ホーエ・シューレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 05:52 UTC 版)
1584年ヘルボルンにホーエ・シューレ(上級学校)が設けられた。創始者はヴィルヘルム・フォン・オラニエの弟で、現在のギムナジウム・ヨハネウムの名前の元となったヨハン6世フォン・ナッサウ=ディレンブルクであった。 1584年にナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世によってヘルボルンのホーエ・シューレ「アカデミア・ナッサウエンシス」が創建された。ベギン会の神学者カスパー・オレヴィアン(ドイツ語版、英語版)によって福音主義化された総合大学風のホーエ・シューレは、初めは専門学部を持たなかった。再三の尽力にもかかわらず、1750年になっても「Universität」(総合大学)の称号を用いる特権は与えられず、それ以前の特権が有効であった。申し分のない高い質の学校であったにもかかわらず、この学校を総合大学とする許可を皇帝が与えなかったため、この学校には博士号の授与資格がなかった。 このホーエ・シューレの神学セミナー400周年の銘文でゲルハルト・メンクは以下のように記している: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}1603年12月、非常に多くの外国人や貴族を含む学生・生徒約400人を擁していたことは、その教員たちと同様に、このナッサウのホーエ・シューレが当時高い評価を得ていたことの証拠である。 —Gerhard Menk また、かつての市文書管理官リューディガー・シュテルケルは生徒数について以下のように記している: 毎年50人近くの新入生が登録され、ホーエ・シューレには100人から150人の聴講生があった。最初の隆盛期にはその数は300人を超えたに違いない。1603年には400人の学生・生徒がヘルボルンに在籍していた。1725年から聴講者の数は減少した。 —Hannelore Benz u. a. いずれにしても、ホーエ・シューレはその設立直後からヨーロッパで最も重要なカルヴァン主義福音派の最も重要な教育機関の一つとなっていた。この学校はドイツで唯一の福音主義単科大学であった。その最も重要な生徒が教育者のヨハン・アーモス・コメニウスである。彼は1611年から1613年までヘルボルンで学んだ。 ホーエ・シューレは1817年に閉校された。その神学部は、ヘッセンおよびナッサウ福音主義教会の「神学セミナー」に改組され、ヘルボルン城で存続した。1825年、バーデン地方教会の高位聖職者(地方監督官)ルートヴィヒ・ヒュッフェルがヘルボルンの教授に指名された。 元の建物はホテルおよびレストランとして利用されている。講堂は市のサークル(たとえばシュララフィア会(ドイツ語版、英語版)「オプ・デア・ディル」)のイベント会場となっている。上階には市立博物館が入居しており、ディル地方の古代、ホーエ・シューレとヘルボルン市の歴史に関するコレクションを有し、特別展示がなされている。 25年以上前から年に1度の頻度で、オールド・ヘルボルン・ユニバーシティー記念ライフ・サイエンス学術シンポジウムが開催されている。講演内容は、オールド・ヘルボルン・ユニバーシティーのセミナー講演録で公開されている。
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