ベジャールによる創造
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佐々木と黛がパリを訪れベジャールと打ち合わせをおこなったが、ベジャールは台本についての詳細なプランは持っておらず、黛はまず自由に曲を作ることを求められた。黛は各シーンの始めに義太夫を入れ、三味線などによる下座音楽をオーケストラと併用することを提案し、ベジャールもこれに賛同した。 「セリフを用いずに歌舞伎のストーリーを音楽で表現する」という難題を乗り越え、黛は『仮名手本忠臣蔵』全十一段を短縮し2幕9場に構成し直した。なお、現代の東京から始めることや、ロックを使うというアイデアはベジャールによるものである。 バレエ音楽のレコーディングは邦楽部分から先に行われ、1985年12月28日に黛自身の指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団によるオーケストラ部分の録音が終了した。同じ頃、ベジャールは『ザ・カブキ』振付のために来日しており、音楽のレコーディングにも立ち会った。 ベジャールは1984年末から正月を挟んで約1ヶ月日本に滞在し、この間に集中して『ザ・カブキ』の振付を行った。午前中にホテルで黛の音楽を聞いて振付の構想を固めてから午後からスタジオで振付を行うというものであり、ベジャールは振付を行いながら衣裳や美術に次々と注文を出し、音楽やストーリーさえも変更しながら作品を作り上げていった。 プロローグの若者たちの衣裳は試行錯誤の末に白のトレーナーに統一され、音楽については、第6場「山崎街道」のために用意していた管弦楽曲が丸ごと下座音楽に差し替えられ、余った「山崎街道」のための音楽は、討ち入りのバリエーションを踊る場面に転用されることになった。 ストーリーについては、当初は歌舞伎では九段目にあたる「山科閑居」が使われるはずであったが、振付の途中でベジャールは外伝「南部坂雪の別れ」と差し替えることにした。 また、四十七士の切腹シーンの前にはダンサー達が火事場装束から白装束に着替える必要があったが、その間を持たせるためにベジャールは原作にない塩冶判官の亡霊を登場させ、師直の首を持ってくる演出を加えた。 そのラストシーンも自体も大きく変更された。当初は、現代の世界から「忠臣蔵」の世界にタイムスリップした若者は、討ち入りを果たした後で再びプロローグと同じ現代の東京に戻り、昔の人々と現代の若者を対比させるという構造になる予定であった。ところが、全員が切腹するシーンを通し稽古で見たベジャールは感動のあまり涙を流し、現代には戻さずに切腹の場面でストーリーを終えることを決めた。 黛は討ち入りの場のために電子音楽を用意していたが、フィナーレの変更に伴いお蔵入りとなった。 ベジャールは黛の旧作を片っ端から聞きあさり、黛が1958年に作曲した『涅槃交響曲』の最終楽章(第6楽章)をバレエのフィナーレの音楽に使うことにした。
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