ヘレニズム・ローマ研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:14 UTC 版)
「ミハイル・ロストフツェフ」の記事における「ヘレニズム・ローマ研究」の解説
1896年にかかれた「古代における資本主義と国民経済」という論文でロストフツェフは、早くも古代経済の中に資本主義の存在を認め、プトレマイオス朝エジプトに代表されるヘレニズム国家の整備された財政と賦課システムや輸出向け手工業の状況は18世紀フランスと類似している、と考えている。そしてローマは「国家の発展が経済の発展にはるかに先行した」ために、自然経済の枠を脱することができなかった。共和制下で矛盾と弊害は極点に達し、共和制の崩壊・皇帝への土地の集中により「小所有に再び生命を与え、農業住民を再生する」ことに成功する。経済生活全体に対して国家や皇帝が果たした後見としての役割を重視するところは、ロシア歴史学の国家主義派を受け継いでいるともいえる。ミリュコーフがロシアの宿命と考えた、未発達のブルジョアジーを代行した国家や政府が上からのイニシアティヴを発揮してロシアに近代化をもたらさなければならない、という結論をロストフツェフは受け入れていただろうか。この時期のロストフツェフにとっては、健全な資本主義経済とは必ずしも自由経済ではない。都市ブルジョアジーの自発的な活動を待っていては、帝国主義段階のヨーロッパ経済とは太刀打ちできない。そういうロシアの国内事情が、彼の古代研究に反映していることは、少なくともあり得ることである。 同じ頃にかかれた修士論文「ローマ帝国における国家請負事業」では、ローマ帝国について考察を進める際にギリシア・ヘレニズムの制度にまでさかのぼる、という後年の研究態度が確立されていることがわかる。1901年の博士論文「ローマの鉛テッセラエ」では従来史料としては軽視されていた、金属や陶片でできた入場券や引換券に着目することで、ローマの社会・経済面を生き生きと再構成することができた。考古史料を社会経済史の研究に活用する積極的な姿勢もまた、ロストフツェフにとって基本となる。 1910年「ローマのコロナート制史研究」で、ローマ皇帝がそれまでの小農民を保護する政策を転換し、労働力を確保するために東方で行われていた制度を採用し、帝政末期のコロヌスという階層が成立し、封建的社会構造と前ヘレニズム的な隷農制をもたらした、という考察を発表して、ローマ史研究に一区切りつける。関心の中心が国家・政府の政策であるところが、ロストフツェフ初期の歴史観を表している。
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