ヘイスティングズの近道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:21 UTC 版)
ランスフォード・W・ヘイスティングズは自身の新ルートを宣伝するため、旅する移民に手紙を送っていた。7月12日、ドナーとリードもそうした1通を受け取った。ヘイスティングズは、当時カリフォルニアに存在したメキシコ当局から妨害されるおそれがあるとして、移民になるべく大きな集団を作って行動するよう薦めた。彼はまた「カリフォルニアに向かう従来より優れた道を新たに切り開いた」と主張し、この新たな近道に移民を案内するためブリッジャー砦(英語版)で待っていると述べた。 J・クイン・ソーントンはドナーおよびリードと旅程の一部をともにし、のちにその著書『1848年のオレゴンとカリフォルニアから(From Oregon and California in 1848)』の中でヘイスティングスを「この地域の旅行者の中のほら吹き男爵」と断じた。ソーントンによれば、タムセン・ドナーはヘイスティングスを「身勝手な冒険屋」と見ており、そのような人物の助言に沿って主要道を外れることには「憂鬱で悲しく、意気消沈する」思いだった。 7月20日、リトル・サンディ川で、一行の中で大多数の馬車はホール砦を経由する確立済の旧道を選んだ。より小さな集団はブリッジャー砦を目指すこととし、指導者が必要になった。若い男性はほとんどが欧州系移民であり、指導者として理想的とは言えなかった。ジェイムス・F・リードは米国での暮らしが長く、年長で、軍隊経験もあったが、横暴な態度のため反感を買っており、周りから貴族気取りで尊大かつ見栄っ張りと見られていた。それに比べると、円熟して経験に富み、米国生まれのドナーは穏やかかつ寛大な性格で、信望を集めて一同から選ばれることになった。一同は当時の標準からすればかなり裕福だった。開拓者とは名ばかりで、ほとんどは山地や乾燥地帯を旅するこれといった技術や経験は持っておらず、アメリカ原住民との接し方についてもほとんど無知だった。 ジャーナリストのエドウィン・ブライアント(英語版)は、ドナー隊よりも1週間早くブラックスフォーク(英語版)に到着した。彼は新ルートの最初の部分を見て、女性や子どもが特に多いドナー隊の幌馬車でここを通るのは難しいのではないかと懸念を抱き、ブラックスフォークに取って返して、ドナー隊の幾人かに宛てて近道を使わないよう警告する書き置きを残した。7月27日にドナー隊がブラックスフォークに着いたところ、ヘイスティングスはハーラン=ヤング隊の幌馬車40台を案内してすでに出発したあとだった。ジム・ブリッジャーの交易所はヘイスティングスの近道が流行れば繁盛が見込まれるため、ブリッジャーは一行に対して、道のりは平坦で荒地や敵対的なアメリカ原住民もなく、したがって旅程を350マイル(560キロ)短縮できると請け合った。途中で干上がった湖の跡を数日間通る必要があるが、道中で水に困ることもないはずだとも述べた。 リードはこの情報に大いに感銘を受け、ヘイスティングスの近道を通るよう唱導した。ヘイスティングスの道は絶対避けるべきとするブライアントの手紙は誰も受け取らなかった。ブライアントはのちの日記の中で、ブリッジャーが握り潰したに違いないと書いており、リードものちの証言でこれに同意している。 1846年7月31日、一行は4日間の休息と馬車修理を終えて、ハーラン=ヤング隊から11日遅れでブラックスフォークを出発した。ドナーが御者の交代要員を1人雇ったほか、新たにマクカッチェン家のウィリアム(30)、妻アマンダ(24)、娘ハリエット(2)が加わり、またニューメキシコから来たジャン・バチスト・トルドー(16)という少年が加わったが、彼はアメリカ原住民とカリフォルニアまでの地理について知識があると自称していた。
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