ブロードウェイ時代
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「ペグ・エントウィスル」の記事における「ブロードウェイ時代」の解説
1925年、エントウィスルは、(現在は、ボストン大学のHuntington Theatreである)Henry Jewett's Repertory の学生としてボストンに滞在していたが、彼女はそこで著名なミュージカルプレーヤーとして全国的な名声を高める事となる。ウォルター・ハンプデンは、エントウィスルに自身のプロダクションの公演でエセル・バリモア主演ハムレットの中の出演者名の出ない端役を与えた。その時彼女に与えられたのは、劇中で王の毒杯を持つ役だった。 後にエントウィスルは、ヘンリック・イプセンの「野鴨」で「Hedvig」役を演じている。そのステージを見たベティ・デイヴィスは母親に、「自分はペグ・エントウィスルの様になりたい」と語った。数年後、ブロードウェイの演出家Blanche Yurkaがベティ・デイヴィスに「Hedvig」役出演の打診をした所、「ペグ・エントウィスルのステージを見るまで、自分はいつかこの役をやりたいと思っていましたが、彼女のステージを見た後となっては、彼女こそこの役に最適であると感じます」との返答があった。 1926年、エントウィスルはニューヨークの Theatre Guild に移籍し、6月にはThe Selwyn Theatreに於けるブロードウェイ公演「The Man from Toronto」で初めてクレジットのある「Martha」役を演じており、通算28回の公演が行われた。エントウィスルは1926年から1932年までの間、 Theatre Guild 所属のミュージカル女優として、 ジョージ・コーハン、ウィリアム・ジレット、ボブ・カミングス、ドロシー・ギッシュ、 ヒュー・シンクレア、ヘンリー・トラヴァーズ、ローレット・テーラー等と共に活動した。 彼女のロングラン公演記録は、1927年のシドニー・トーラーと共演の「トミー」で合計232回の舞台をこなし、彼女にとって最も印象深い役となった。 1927年、エントウィスルは、アメリカ人俳優ロバート・キースとニューヨーク市書記局のチャペルで結婚したが、1929年5月に離婚した。彼女は、夫の虐待の容疑と共に、夫に離婚歴があり、6歳の男の子(後に俳優となったブライアン・キース)がいた事を隠していたと主張した。 1927年9月のステージ「招かれざる客」は、わずか7回の公演で終了したが、ニューヨーク・タイムズの批評家J. B. アトキンソンは、「ペグ・エントウィスルは、期待以上の演技をした」と書いている。 彼女は、 Theater Guild に所属しながらもブロードウェイ中のミュージカルに出演するようになり、1927年のニューヨーク・タイムスの日曜コラムに、2年後にはカリフォルニアの地方紙オークランド・トリビューンにも毎週イメージを変えて載る様になった。 「シャーロックホームズとフォークナー嬢の不思議な事件」の様なサスペンスドラマに出演すると同時に、喜劇や純情な少女の様な役にも積極的意欲を見せた。1929年のインタビューの中で彼女は次の様に述べている。 「私は、説得力がある役を演じたいと思います。 恐らくそれは最も簡単であると同時に、私にとって最も難しいものであるからでしょう。いかなる感情表現の場面においても、私は全身の神経を集中して繊細な感情表現をしなければなりません。私が最初の台詞の一言でこの域にたどり着くならば、後の台詞は自然についてきます。 しかし、もし失敗するならば、私は後の台詞のバランスを考えなければなりません、こうなった場合は、全ての特徴描写は失敗に終わります。 私自身を騙しているのを感じます。 私以外の女優さんが私の様な経験をしているのか、私には分かりませんが、私はいつもその事について悩まされます。」 1932年初頭、エントウィスルにとって最後のブロードウェイ舞台となるジェームス・マシュー・バリーの「Alice Sit-by-the-Fire」に臨んだ。これはローレット・テーラーも同じく主演した舞台だったが、テーラーはアルコール使用障害で2度欠番し、チケットの払い戻し騒動があった後公演は中止され、エントウィスルと他の俳優たちは、公演前の契約で定めた割合の僅か1週間分の給料を手渡されたのみだった。
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