ブルズ以後
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1998-99シーズンはしばらくどのチームとも契約せず、シーズン後半の1999年2月にフリーエージェントとしてロサンゼルス・レイカーズと契約。23試合に出場し、約2か月の4月に解雇された(リバウンドでは2桁リバウンドと活躍していた)。このシーズンでロッドマンの連続リバウンド王獲得は途切れることになった。 次のシーズンはダラス・マーベリックスに参加するが、シーズン途中の2000年3月に解雇され、現役を退いた。2003年アメリカ・独立リーグABAのロングビーチ・ジャムと契約し、現役に復帰した。(ここから、2006年まで様々なリーグを転々とする。)
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ブルズ以後
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「スコッティ・ピッペン」の記事における「ブルズ以後」の解説
1998年にピッペンはヒューストン・ロケッツにサイン・アンド・トレードで移籍した。ロケッツは前年に「ビッグ3」の一人だったクライド・ドレクスラーが引退しており、ピッペンはその後釜におさまり、ついに念願の高額契約(年俸1000万ドル程度と言われた)も手にした。ロケッツはアキーム・オラジュワンとチャールズ・バークレーと共にNBA史上有数のトリオになり優勝候補であったが、オラジュワンとバークレーは年齢から来る故障で欠場が多く、ヘッドコーチのルディ・トムジャノビッチもピッペンを上手く活躍させる方法を見つけられずにただ出場時間だけはやたらと長くさせるような起用法を採らざるを得なかった。ピッペンの成績もブルズ時代より低下し、チームは安定感を欠きプレイオフでは1回戦でシャキール・オニールとコービー・ブライアントのロサンゼルス・レイカーズに敗退した。シーズン終盤には以前は親友だったバークレーとの関係も悪化し、互いを批判するようになった。ピッペンはこのチームで自分が思っていた役割が与えられなかったことに不満を述べていた。 翌年、ピッペンはポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。層の厚いチームで出場時間は減り、従って個人成績も下がったがピッペンはチームのキーマンとして活躍。若くて才能溢れるチームの中で、優勝経験を持つピッペンは貴重なベテランであり、また抜群のチームリーダーの一人であった。ピッペン自身も、自分は「ボンド」接着剤のような存在で、チームを一つにする役割は自分の仕事だと認識していた。試合中に、若い選手達に駆け寄りアドバイスをする姿がしばしば見られ、闘志あふれる姿勢で先陣切ってチームを引っ張っていた。ブレイザーズは59勝23敗の好成績でプレイオフに進出した。カンファレンス・ファイナルでこの年からかつてのブルズのコーチだったフィル・ジャクソンが指揮を執るロサンゼルス・レイカーズと対戦した。レイカーズはその年、ジャクソンの手腕による改革が成功し、リーグ1位の67勝を挙げる強さだったが、ジャクソンの信条であるトライアングル・オフェンスにレイカーズの選手がまだ馴染んでいないのを見て取ったピッペンは相手の攻撃パターンを読み切って次々とスティールを奪う活躍をみせる。このシリーズで1試合8スティールを記録したこともあり、それまでマイケル・ジョーダンが保持していたプレーオフの通算スティール数記録をピッペンは更新している。(現在も本人が記録を保持。)格上だったレイカーズを第7戦まで追い詰めたが、大量のリードを奪っていたこの試合の第4クオーターでブレイザーズは11本連続でシュートを外すという悪夢に見舞われ、レイカーズの猛追と逆転を許し3勝4敗で敗れ去った。レイカーズのリック・フォックスとは激しい舌戦を繰り広げて、マスコミにも注目を浴びた。また、若きコービー・ブライアントとも激しい一対一を展開して、ライバル関係をむき出しにして闘った。このシリーズはハック・ア・シャックが最も使われたシリーズの1つとしても知られている。 天下分け目ともいうべき2000年のレイカーズとの決戦に敗れて優勝を逃して以来、ブレイザーズはチームの改革が徐々に裏目に出るようになる。トレードやコーチの交代も結果として失敗が多く、翌2000-01シーズンのブレイザーズは50勝、その次のシーズンは49勝という結果でピッペンの個人成績も徐々に低下していた。プレイオフではこの2シーズンともレイカーズに1回戦で3連敗し、優勝には遠く及ばない状態だった。2002-03シーズンのプレイオフでは1回戦でダラス・マーベリックス相手に3勝4敗と健闘したもののここでシーズンを終えた。 2003年にかつてのチームメートであったジョン・パクソンがゼネラル・マネジャーになったのを期に、シカゴ・ブルズに復帰した。しかし38歳という年齢と怪我のため、あまり試合に出場して姿を見せることはなく、翌シーズン開始前の2004年10月5日に引退を表明した。彼が一貫して付けていた背番号33番はブルズの永久欠番となった。 2008年1月にピッペンは3年ぶりに現役に復帰し、フィンランドのTorpan Pojatで2試合、スウェーデンのSundsvall Dragonsで1試合に出場した。
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