ブライ総督への判決
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1808年の1月26日の午前、ブライは再びマッカーサーを拘引し、またその時点で軍団の手中にあった召喚令状を取り戻すように命じた。軍団は新しい法務長官の法廷出席と、保釈中のマッカーサーを自由にすることを要求してこれに応えた。ブライは軍団の士官たちを政庁に呼び出して、法務官による告訴に応じさせ、ジョンストンには、軍団のやったことは大逆罪であると考えていると通知した。 ジョンストンは、ブライに代わって刑務所へ行き、マッカーサーを釈放するように指令を発した。その後マッカーサーは、ジョンストンを呼んで、ブライを逮捕した後に植民地の実権を握らせるための請願書を起草した。この請願書は軍団の士官たちと著名な市民が署名をしたが、エバットによると、ほとんどの署名は、恐らくはマッカーサーたちがブライを安全に軟禁して、逃亡の心配がなくなった後になって加えられたものだった。その後ジョンストンは士官たちと謀って、このような指令を発した。それは、ブライが人品賤しからぬ犯罪者であることを告発され、そのため住民はその瞬間から、この植民地にふさわしくない最高権威に権力を行使させることになり、そのふさわしくない者の告発に我が指揮下のすべての士官は加わったというもので、ジョンストンは、ブライに辞任して逮捕を受け入れるよう叫び続けた。 26日の午後6時、ニューサウスウェールズ軍団のすべての部隊と隊旗がブライを逮捕するべく政庁へ行進した。ブライの娘メアリーがパラソルで邪魔をしたが、トマス・レイコック中尉がついにブライを見つけ出した。ブライは第一礼装の軍服をつけており、ベッドの陰に隠れていた。その場所は、ブライが情報提供の書類を隠していると言い張った場所だった。ブライは風刺画では臆病者のように描かれているが、ジャーナリストのマイケル・ダフィ(英語版)は、もしブライが隠れていたのであれば、そのまま逃げて、軍団による政変を阻止しただろうと主張している。スティーヴン・ダンドー・コリンズ(英語版)も著書「ブライ艦長のもうひとつの反乱」(Captain Bligh's Other Mutiny) でこれに同意しており、ブライはホークスベリーに逃げて、自らを強力に支援する入植者たちを率いて、軍団と対決する計画だったというところまで示唆している。ブライと娘のメアリーは、政庁に監禁された。ブライは法にのっとって解任されない限り、イギリスへ戻るのを拒否した。 ジョンストンは建築技師のチャールズ・グライムズ(英語版)を法務官に任命して、マッカーサーと6人の士官の裁判を命じ、全員無罪となった。その後マッカーサーは植民地事務官に任命され、植民地の商務をうまく切り回した。ブライのもう一人の大きな敵であり、マッカーサーの同盟者であるトマス・ジェイミソンは植民地の海軍士官に任命された、海軍士官の地位は関税や物品税の徴収官と同等であった。ジェイミソンもまた治安判事として復帰し、このため、ジェイミソンと仲間の法務官僚は、ブライの私文書を、免職された総督の悪行の証拠として徹底的に調べた。1809年の6月にジェイミソンはロンドンに発った。自分の事業における権益を強固なものにするため、そして、抵抗勢力へのどの告発においても、ブライへの不利な証言をするためであった。しかし1811年の初頭、ジェイミソンはロンドンで亡くなり、その年の6月に初めて開廷された、ジョンストンの軍法会議での証言の機会は得られなかった。 ブライの逮捕から少したって、無名の画家による逮捕を描いた水彩画がシドニーの、おそらくはオーストラリア初の公共の展覧会に陳列された 。この絵では、兵士が、政庁内の召使のベッドの下にいるブライを引きずり出そうとしているところで、他に2人の兵士がそばに立っている。描かれている2人の兵士は、おそらくはジョン・サザーランドとマイケル・マルバラであり、一番右側にいる兵士は、ウィリアム・ミンチンを表していると思われる。この、現存するオーストラリア初期の政治の風刺画や、それに類する絵画は、戯画と誇張とを使って意図するところを伝えている 。ニューサウスウェールズ軍団の士官たちは、自らをジェントルマンであると考え、ブライを臆病者と描くことで、ブライはジェントルマンでもなく、そのため行政には不向きであることを表現している。そもそもこの絵は、ブライが、都市計画の邪魔になるホイットル上級曹長の家を取り壊すように要求し、ブライとホイットルが口論になったことに端を発している 。ホイットルがこの絵の作成に関与した、あるいは自分でこの絵を描いたのでないかと思われてきたが、彼は教育を受けていなかったため、そうではないと思われている 。
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