フランクフルトでの最後の10年(1827年-1838年)[42歳-53歳]
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「フェルディナント・リース」の記事における「フランクフルトでの最後の10年(1827年-1838年)[42歳-53歳]」の解説
フランクフルトでの最初かつ最大の収穫は、オペラの成功である。バート・ゴーデスベルク在住時より構想されていた処女作オペラ『盗賊の花嫁』は、台本作家との意見の不一致で制作が難航したものの、1828年10月15日にフランクフルトで初演され、大成功を収めた。師ベートーヴェンの「フィデリオ」と同じく救出オペラの筋を持つこの作品は、ドイツの諸都市で再演を重ね、早くも1829年7月15日にはロンドンで英語版が上演された。 このオペラの成功、およびニーダーライン音楽祭での「第九」やヘンデルやハイドンのオラトリオの指揮の経験が、リースを声楽ジャンルの開拓に導いた。オペラ3作、オラトリオ2作が、この最後の10年間で作曲されている。 国外への活動も精力的に行われた。1831年にはダブリン音楽祭に招聘されたほか、1832年から翌年にかけて、妻とスイス・イタリアに長期旅行。ここでは最後のピアノ協奏曲「第9番 Op.177」、最後のピアノソナタ「Op.176」、最後の弦楽四重奏曲「WoO 48」などを作曲した。1836年から1837年5月にかけては、パリ(コンセルヴァトワールでの演奏会)、ロンドン(フィルハーモニック協会での演奏会)、アーヘン(ニーダーライン音楽祭)を巡るハードな旅程をこなした。 しかし、一方で、全盛期には非常に多作であった筆は、晩年に至るにつれやや陰りを見せていった。1829年に末娘を失った強い精神的打撃は1年近く彼をさいなませ、1832年の手紙には、音楽出版社との関係が芳しくないという言葉もみられる。ピアニストの世代交代や出版作品の大衆化という、1830年代以降の新たな潮流のなかで、彼の作風はロベルト・シューマンなど一部の若い世代から支持される一方、芸術的にも商業的にも、最前線からは徐々に退いていったといえるだろう。40代より患ったリウマチによりピアニストとしての活動も減少し、妻の持病も不安の種であった。 それでも、リースの名声は1838年1月13日の死に至るまで持ちこたえた。死の前年には、ヨハン・ネーポムク・シェルブレ(英語版)の後を継いで、フランクフルトの合唱団体である「チェチーリア協会」の音楽監督の地位を得ている。 また、「ベートーヴェンの弟子」という肩書は、青年期から人生の最後まで彼に大きな役目を与え続け、彼自身もそれに積極的に応え続けた。ボンのベートーヴェン像建立計画(1845年に完成)にも協力し、チャリティー演奏会を企画。晩年には、友人のフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと共に「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を執筆した。残存するヴェーゲラー宛の最後の手紙には、死の病に苦しむ様子に続き、「覚書」に関する膨大な補足が書かれている。
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