フィリピン独立革命への参画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:45 UTC 版)
「エミリオ・アギナルド」の記事における「フィリピン独立革命への参画」の解説
フィリピン諸島は16世紀以来スペインに植民地化されており、フィリピン先住民はスペイン植民地当局による重税と重労働で虐げられていたが、1892年にアンドレス・ボニファシオが中心となり秘密結社「カティプナン」が結成されていた。カウイト町長を務めていたアギナルドは、ホセ・リサールを筆頭とするスペイン留学を経験したフィリピン人独立派知識人が参画していたフリーメーソンのイムスのロッジに参加した。その後更に、1895年3月にマニラに訪れた際にアンドレス・ボニファシオと出会い、その場でカティプナンに入会した。 1896年8月19日にカティプナンの陰謀が新聞紙上で報道されたことを契機にスペイン植民地政府当局は先手を制してカティプナンを検挙する方針を打ち出したため、後手に回ったボニファシオは1896年8月23日に同志と共に「プガドローインの叫び」を発し、武装蜂起を宣言した。同年8月30日にボニファシオに率いられたカティプナン部隊がマニラ北方のサンフアンデルモンテのスペイン軍基地を襲撃したが、ボロ(蛮刀)、弓矢、竹槍などで武装したボニファシオ軍はスペイン現地軍に敗北を重ねた。他方、ボニファシオ軍の敗報を受けたアギナルドは翌8月31日に独自に「カヴィテの叫び」を発し、独自の軍を編成して9月3日のイムスの戦いと11月9日のビナヤカンの戦いでスペイン軍に勝利し、カヴィテ州を武力解放した。この間、マニラではホセ・リサールの裁判が進み、アギナルドはリサール奪還を試みたが、計画は中止を余儀なくされ、12月にリサールはスペイン植民地政府によって銃殺刑に処された。 1897年に入ると、本国から4万人の増派を得たスペイン軍の反攻が進み、2月15日にアギナルドの支配するカヴィテ州への進軍が始まった。翌3月のパソンサントルの戦いでは兄のクリスプロ・アギナルドが戦死し、拠点を置いていたイムスの町からアギナルドは撤退、ナイクに移動した。5月にスペイン軍はナイクに立て籠もるアギナルド軍に対する総攻撃を行い、アギナルドは一度死を覚悟したものの、副官のマリアノ・ディアス大佐の進言を受け入れて脱出を決意し、徒歩でマラゴンドンの町にまで敗走した。また、この5月のカティプナンの敗北期にカティプナンの内部抗争が発生し、アギナルド自身は一度流刑への減刑を思いつつもグレゴリオ・デル・ピラールらの進言を受け入れボニファシオを銃殺刑に処し、カティプナンの指導権を握った。 その後、マラゴンドンの町の維持も難しくなったためにアギナルドはカヴィテ州からの撤退を決断、マニラ北部のピアクナバトを目指して進軍を開始し、6月のピュライ山の戦いでスペイン軍を破った後、6月24日にピアクナバトに到達し。同年11月、ブラカン州に総司令部を置き、「ビアクナバト共和国」を樹立。自ら大統領と名乗る。その後もアギナルドはピアクナバトからフィリピン各地のゲリラ戦を指導しつつスペイン軍と交戦を続け、マニラのブルジョワ弁護士ペドロ・パテルノの仲介を得てスペイン当局と1897年12月14日に和平協定(ビアクナバト協定)を調印、スペイン側から補償金を得て亡命を申請し、アギナルドと他26人のカティプナンは同年12月31日に香港に到着した。香港の湾仔街(ワンチャイ)で自転車業を営み、これに伴いフィリピンのスペインからの独立運動もしばらく落ち着くかのように見えた。
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