ピット砦の包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」の記事における「ピット砦の包囲戦」の解説
西部ペンシルベニアの入植者は、戦争の勃発後安全を求めてピット砦に逃げ込んだ。550名近い人々で砦はごった返すことになり、しかもその内の200名以上は女子供であった。スイス生まれのイギリス軍指揮官シメオン・エキュイアは、「大変な混雑だったので私は疫病を恐れた。天然痘が流行っていた」と書き残した。ピット砦は6月22日にデラウェア族を中心とするインディアンの攻撃を受けた。砦は防御が優れていたので7月中の包囲を持ち堪えた。一方でデラウェア族とショーニー族の戦士がペンシルベニア深く侵攻し、数知れぬ入植者を捕まえ殺した。ピット砦の東に2つの小さな砦、ベドフォード砦とリゴニエ砦があり、散発的な攻撃をうけたが、奪取されるまでには至らなかった。 イギリス軍のアマースト将軍は、戦前はインディアン部族がイギリス軍に効果的な反抗を行えるとはとても考えていなかったが、この夏の軍事状況はひどくなるばかりであった。アマーストは部下達に捕虜にした敵のインディアンは「即座に殺すこと」という指示を書き送った。ペンシルベニアのランカスターに居て、ピット砦の救援のために遠征隊の準備をしていたヘンリー・ブーケット大佐には、6月29日に次の様な提案をした。「不満を抱いているインディアン部族の間に天然痘を送り込む計画は立てられないだろうか?この際、敵を弱らせるために我々の力の及ぶあらゆる戦術を使うしかない。」 ブーケットは同意し、7月13日にアマーストに返信を書いた。「何枚かの毛布に菌を植え付け、敵の手に入るようにしてみる。もちろん自分には移らないように気をつける。」アマーストは7月16日に好意的に返信した。「毛布という手段でインディアンに菌を移すというのはうまく行くだろう。他にもこの忌まわしい部族を根絶やしできる手段なら何でも使うといい。」 ピット砦に包囲されていた士官達が、アマーストとブーケットがまだ議論している間に、明らかにアマーストやブーケットの命令無しに、既にその試みをやっていたことが分かった。6月24日のピット砦での和平交渉の間に、エキュイアは包囲しているデラウェア族の代表に2枚の毛布と1枚のハンカチを送ったが、それらには天然痘の菌に曝されており、病気がインディアンの間に広まれば包囲を止めさせられると期待していた。 イギリス軍がインディアンを感染させたかどうかは明らかでない。ポンティアック戦争中、多くのインディアンが天然痘で死んでいたので、この試みが成功だったという歴史家も居るが、多くの学者達は現在のその結論を疑っている。理由の一つは、オハイオ・インディアンの中の天然痘の流行が明らかに毛布事件よりも前に始まっていたことである。さらに、ピット砦の外に居たインディアン達が毛布を受け取ってから1ヶ月以上も包囲を続けたことは、明らかに疫病の流行によって影響を受けて居なかったことを示している。(毛布を受け取ったデラウェア族の酋長2人は1ヶ月後も変わらず健康であった。)最後に、天然痘は既にその地域に蔓延していたので、多くの要因でインディアンの村にたどり着いた可能性があるということである。目撃者の証言によれば、病気が蔓延した白人の入植村を襲ったインディアンが病人に接触し、自分の集落に戻る途中に病気をまき散らした可能性があるということである。これらの理由により、歴史家のデイビッド・ディクソンは、「インディアンは多くの感染ルートを通じて恐ろしい病気をうつされたかもしれないが、ピット砦の感染した毛布はその感染ルートの一つに過ぎない」と結論づけた。
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