ピット砦問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 11:38 UTC 版)
「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「ピット砦問題」の解説
オハイオへの最初のアメリカ植民地軍の遠征は大失敗だった。1778年2月、冬季にも拘わらずエドワード・ハンド将軍がペンシルベニア民兵500名を引き連れクヤホガ川沿いのミンゴ族集落を急襲した。そこではイギリス軍が軍需物資を保管し、インディアン襲撃隊に配給していた。しかし悪天候に阻まれて目的地まで達しなかった。帰路にハンドの部隊の者数人が平和的インディアンであるデラウエア族の集落を襲って男性1人と数人の婦女子を殺害した。この中にはデラウェア族の酋長キャプテンパイプの縁戚が含まれていた。非戦闘員のみが殺されたために、この遠征隊は軽蔑的に「女々しい攻撃隊」と言われた。 無法な民兵の行動に加え、ピッツバーグ近辺の王党派市民がハンド問題の輪を大きくした。1778年3月、イギリス軍との結びつきが強かった3人の男と北米インディアン達がピッツバーグを離れて、イギリス軍と同盟インディアンの側に寝返った。3人とは「女々しい攻撃隊」を誘導した通訳サイモン・ガーティ、その地域の貿易商人マシュー・エリオット、イギリス・インディアン部局のアレクサンダー・マッキーだった。3人ともに戦争中イギリス軍の価値ある工作員となった。多くの批判を浴び、また寝返りを許したことを大陸会議に調査問責され、ハンドは1778年5月に辞任した。
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