ハービィ・ハディックスの偉大な敗北
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「1959年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ハービィ・ハディックスの偉大な敗北」の解説
この年ピッツバーグ・パイレーツに小柄な左腕投手がいた。ハービィ・ハディックスというその選手は1946年にカージナルスのトライアウトを受けて入団し、ファームのウインストン・セーラム球団(当時のC級)から4年後にはAAA級のコロンバス球団に上がっていた。ところが朝鮮戦争の勃発で兵役に就き、1952年に復員してその年にメジャーデビューして2勝2敗。そして翌1953年に20勝9敗、1954年には18勝13敗の成績で先発の柱だったが当時のカージナルスは下位に低迷していた。次の年に12勝16敗に落ちて、翌1956年に就任したフランク・レインGMがすぐにトレードでフィリーズに放出し、ハディックスはその後フィリーズからレッズへ、そしてこの年にフランク・トーマスと交換でパイレーツへ移った。パイレーツのダニー・マートー監督は小柄で真面目なハディックスに目をかけて、ハディックスもチームに貢献して順調に4勝を稼ぎ、5月26日にミルウォーキーのカウンティスタジアムでのブレーブス戦に先発した。ブレーブスには、エディ・マシューズ、ハンク・アーロン、ジョー・アドコックのトリオでマウンドにはエースで2年前のワールドシリーズで3勝を挙げたルー・バーデット が登板した。この試合の前に風邪をひき体調はどん底のハディックスは完投は無理だと思っていた。捕手はスモーキー・バージェスで打順は3番を打ち、4番はロッキー・ネルソン一塁手、翌1960年のワールドシリーズ第7戦でサヨナラホームランを打つビル・マゼロスキーは6番で、ロベルト・クレメンテは故障で欠場しておりクレメンテが本格化するのはこの翌年からであった。 1回裏を三者凡退でベンチに戻ってきた時に「あまりシャープな体調とは思えません。でもやれるだけ長く延ばしてみましょう」とマートー監督に報告した。それから打たして取る投法で三者凡退を繰り返し、7回から雨も降ってきたが本人は試合にのめりこんでいたので気にせず、7、8、9回と走者を出さずに試合は進んだ。相手のバーデットも好調で安打を打たれても点を取らせず、とうとう9回まで完全試合ながら延長戦に入った。そして12回まで完全に抑えていたが13回裏に入って1番マンティラの3塁ゴロを一塁への送球が逸れてセーフとなり3塁手のエラーとなった。次のマシューズは送りバントで走者を2塁に進め、アーロンは敬遠されて1死1・2塁からアドコックがサヨナラ3ランホームランを打って試合は決した。ハディックスは12回まで完璧に抑えていただけに終わった後にはパイレーツの選手は全員ただ茫然とするばかりであった。 同僚のビル・バードン中堅手は「ハービィが球史に無い偉業を達成しようとしたのに俺たちは彼に手をかしてやれなかった」と唇をかんだ。試合が終わった直後にマートー監督はマウンドに駆け寄りハディックスと握手して勝利投手のように迎えた。ナショナルリーグのウォーレン・ジャイル会長は「君の歴史的な記録達成にお祝い申し上げる。見事なピッチングだった」と電報を送った。この日のハービィ・ハディックスの記録は「9回までの完全試合」と注釈付きで完全試合に認定されたが、1991年に完全試合の要件が変更されて今日では完全試合とはみなされていない。なお、これより36年後の1995年6月3日、当時のモントリオール・エクスポズに在籍していたペドロ・マルティネス投手が対サンディエゴ・パドレス戦で9回まで完全試合ながら10回無死からビップ・ロバーツに初安打を打たれ、結局勝利投手になりながら完全試合を逸している。 ハディックスはその後も現役を続け、引退時に実働15年で136勝113敗、奪三振1,575、防御率3.63の実績を残した。
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