ドーバー海峡横断部
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「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!の企画」の記事における「ドーバー海峡横断部」の解説
1997年7月25日初登場以来、約2年にもわたってドーバー海峡のリレー横断を目的に行なわれていた。放送回数全43回。 1997年、内村、ウド、勝俣、有野の4人(各コンビの海の似合う方+マネージャー千秋)をメンバーとしてスタート。リレーに必要な人数(6人)を満たすため、濱口、藤崎を勧誘、入部させた。堀部は「鬼教官」として見守っていた。専用練習場で実力を高め、国内の大会出場・予行演習などを繰り広げたが、あまりに過酷な活動と各々のドーバーに対する不安が大きくなり勝俣(のちに「鬼コーチ」として登場)、有野、藤崎が脱落。その後、新入部員を応募したところ、猿岩石・TIM・島崎俊郎・オセロの中島知子が応募。入部テストとして、面接と部員が普段の練習メニューとしている100m泳10本+200m泳5本+1km泳を実施したところ、レッド吉田と中島のみ泳ぎ切った。泳ぎ切れなかった猿岩石の2人・ゴルゴ松本・島崎俊郎がその場で入部を辞退することを表明、しかもレッドと中島も後日入部を辞退することを表明し、白紙となった。そこでさらなる参加メンバーを呼びかけたところ、今度は川合俊一・石塚英彦・宮本和知の3人が名乗りを上げ、宮本のみが入部を表明。それでも参加メンバーが足りず廃部にまで追い込まれたが、堀部が「鬼部員」に転身、さらにウリナリ審査委員として関わっていた日本テレビアナウンサーの藤井貴彦が参加した。だが、宮本がプロ野球の取材や相次ぐ故障で結局退部となるも、代わりに友人で元テニスプレイヤーの神尾米を紹介、入部を果たす。(部員が少ない状態の間は、当時人気だったCM、セガの湯川専務のパロディが放送されていた)。 最終的に1999年8月31日「内村、濱口、神尾、藤井、堀部、ウド」(横断時のリレー順)の6人(+マネージャー千秋)で16時間37分を掛けドーバー海峡の横断に成功しチャネルスイマーとなる(England/France - One Way 260組目)。横断達成記念に堀部圭亮デザインのオリジナルリングを作成。内村は滅多にアクセサリーを付けないがこのリングだけは左薬指に付けており、ファンに混乱を呼んだ。 ウリナリ最終回である「ウリナリ祭り」において「ウリジェクトX(プロジェクトXのパロディの先駆けであった)」としてその歴史が紹介された。ウリジェクトXのタイトルコール・司会担当は内村光良。なお、最後の出番が終わったときに内村が発した「もう泳げない!何度やめようかと思った!」という魂がこもった発言は、他の企画でもしばしば話題に上がり、そのたびに内村は赤面していた。 この時の専用練習場は、放映時に秘密とされていたが、現在の日本テレビ汐留新社屋の予定地に建てられていた。建物自体も、近くを通る首都高速道路からわずかだが見えていた。同時期にやっていた電波少年の企画物もその隣で行われていた。 ドーバー海峡横断終了後も年に一度のドーバー会を開いている。 ダウンタウンの浜田雅功が『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(1999年8月22日放送)の中で「ドーバーは無理」という主旨の発言をしたことがある(台本かアドリブかは不明)。一方で松本と共に堀部の応援VTRに登場している(堀部は『ガキの使い-』の放送作家である)。「戦友」と呼ぶ交流の深いウンナンという事で普段ゲスト出演をほとんどしない彼らとしては大変珍しい形での出演となった。
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