トリカマルムの戦いとゲリメルの降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:22 UTC 版)
「ヴァンダル戦争」の記事における「トリカマルムの戦いとゲリメルの降伏」の解説
詳細は「トリカマルムの戦い」を参照 敗北を悟ったゲリメルは首都のカルタゴの守備隊が少なく、また城壁も損壊していたため、残余部隊とともにヌミディアへ向けて西へ逃亡した。ベリサリウスは丸1日の休養を兵士たちに与えた後に進軍を再開して、9月19日に市民の大歓声を受けつつカルタゴに入城を果たした。ベリサリウスの厳命により、軍の規律は守られ、略奪は行われなかった。ヴァンダル王国の王宮に本営を置いたベリサリウスはゲリメルの反攻を予測して城壁の修復を行わせた。 実際、ブラ・レジア (en) に逃れたヴァンダル王は直ちに王弟ツァツォンをサルデーニャから呼び戻していた。ツァツォンは反乱を起こしたゴダスを簡単に討ち取り反乱を鎮圧していたが、急ぎアフリカへ帰還した。ツァツォンと合流したゲリメルはカルタゴに向けて兵を進め、町への水の供給を遮断した。また、彼は市内に工作員を送り込み、ベリサリウスのフン族部隊を買収しようとさえしている。 裏切りによってヴァンダル軍が市内に侵入することを危惧したベリサリウスは出戦を決意する。12月中旬に両軍はヴァンダル軍の野営地から近いトリカマルムで相対した。東ローマ軍歩兵はこの日遅くまで到着せず、会戦はほぼ騎兵のみで行われた。東ローマ軍は繰り返しヴァンダル軍に突撃し、ツァツォンを戦死させた。アド・デキムムの際と同じく、ゲリメルは戦意を失ってしまい、ヴァンダル軍は総崩れになった。数日後、ベリサリウスはヒッポーネでヴァンダル王国の財宝を接収した。 ゲリメルはムーア人の助けを受けてヌミディアのパップア山に立て籠もった。ベリサリウスはヘルール族にこれを包囲させ、3ヶ月の包囲戦の末に飢えに苦しんだゲリメルは534年3月に東ローマ軍に降伏した。ゲリメルの降伏以前に東ローマ軍はサルデーニャ、コルシカそしてバレアレス諸島、マウレタニアとジブラルタル海峡の対岸にあるセプティムを制圧している。 この年の夏にベリサリウスはゲリメルとヴァンダル王国の財宝を伴ってアフリカを出立しており、この中にはエルサレム第二神殿の燭台(メノーラー)をはじめ、80年前のローマ略奪の際に持ち去られたものも多く含まれていた。ユスティニアヌス帝は過去のローマ帝国の栄光を意識し、古に倣いベリサリウスに凱旋式の挙行を許可した。皇帝以外の市民による凱旋式は紀元前19年のルキウス・コルネリウス・バルブス (en) 以来のことであり、同時にベリサリウスが最後となった。凱旋式の最中、満面の栄誉に浴している皇帝の姿を見たゲリメルはコヘレトの言葉を引いて「空の空。すべて空」と呟いたという。ゲリメルは皇帝から所領を与えられて引退し、捕虜となったヴァンダル兵は対ペルシャ戦線へ送られた。 ヴァンダル戦争は予想外の迅速かつ完全な勝利に終わり、帝国のかつての栄光を取り戻さんとするユスティニアヌス帝の信念を確固としたものにさせた。それを裏付けるように、新たに属州に加えられた行政組織に関する法律の前文にはこう書かれている。 「 我が前任者たちは神の恩寵に値わず、アフリカの解放を許されなかったばかりか、ローマ自体がヴァンダル族に奪われ、帝国の印はアフリカに持ち去られた。だが今や神は、その御慈悲により、アフリカとその属州全てを我に賜ったばかりでなく、ローマから持ち去られた帝国の印もまた、神は我が元へ戻されたのである。 」 —勅法彙纂、第1巻第27法
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