デルスィム事件とは? わかりやすく解説

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デルスィム事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)

トルコ・クルド紛争」の記事における「デルスィム事件」の解説

シェイフ・サイードの反乱アララト反乱の後にもクルド人ナショナリズム掲げた反乱複数存在した中でも重要なものとして1937年から1938年アレヴィー派中心地であり、ザザ語話者クルド人の暮らすデルスィムでの蜂起挙げられるデルスィム険しい山囲まれていて、オスマン帝国の時代より長らく自治維持してきた。ケマル・アタテュルクはこの問題解決したい考えていた。1926年には内相デルスィムに関して報告上げている。曰く、「デルスィムトルコ共和国腫れ物であり、取り除かなければならない」。1936年にはアタテュルク演説のなかで、内政上の一番の問題デルスィムであると語っている。同年トルコ政府軍デルスィム包囲武装解除要求する。そしてデルスィム1937年武器取り抵抗運動開始、かれらはこれを抵抗反乱位置づけた。1938年5月4日トルコ攻撃開始決定下す抵抗する者に対す処遇支持されており、家族ごと退去させよ、とも殺せとも取れ遠まわし表現であった一般的には反乱1938年終わったとされている。トルコ軍記録では17日間で7954名のデルスィム人が殺された。地上部隊連携して航空機による爆撃機銃掃射が行われ、女性子供を含む無抵抗村人達にも犠牲者をだしている。反乱鎮圧後もトルコ政府により懲罰措置として40,000人が強制移住または殺害された。このデルスィムケースにおいてトルコのとった政策虐殺であった語られている。2011年11月23日エルドアン首相は「デルスィム悲劇」に対しトルコ政府として謝罪したデルスィム陥落以降1980年前後までトルコでは本格的なクルド人民族運動見られないクルド人ナショナリズムがなりを潜めた理由にはトルコ政府による徹底したクルド人存在否定があるとも言われるトルコ政府同化政策の下ではクルド人山岳トルコ人というトルコ人として扱われた。そしてクルド語使用禁止され地名や、子にクルドの名前を与えることも禁止された。クルド語での教育禁止され歴史登場するクルド人学者ウラマーまでもがトルコ人とされ、文献からクルドクルディスタンという言葉消された。一方で政府の政策受け入れたクルド人優遇された。

※この「デルスィム事件」の解説は、「トルコ・クルド紛争」の解説の一部です。
「デルスィム事件」を含む「トルコ・クルド紛争」の記事については、「トルコ・クルド紛争」の概要を参照ください。

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