シェイフ・サイードの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)
「トルコ・クルド紛争」の記事における「シェイフ・サイードの反乱」の解説
1923年のローザンヌ条約の内容に失望したクルド人は1924年から連続して反乱を引き起こす。中でもクルディスタンの独立を掲げたシェイフ・サイードの反乱(1925年2月)が最大のものとなった。この反乱に関わっていた組織、アザディ(azadi)には軍に仕官している者やハミディイェの軍事学校の出身者が多く参加していた。アザディの動機には純粋なナショナリズムがあったとされているが、一方でアザディはナクシュバンディー教団のシャイフであるシェイフ・サイードを担ぎあげ、支持を集めるために宗教を利用し、シェイフ・サイードによる反乱の号令にはファトワーが用いられている。彼らはすべてのクルド部族に参加を求めたが、実際に参加した部族のほとんどはザザ語話者・クルドの部族に限られていた。さらにはアレヴィー派部族の支持も得られなかった。ジハードを用いたことで宗派の対立が一層際立ったという見方もある。旗を振るシェイフ・サイードはスンニー・ザザ・クルド、軍事的な主導権を握るハミディイェはスンニー派・クルドに占められていた。アレヴィー派にしてみれば彼らの目指す、カリフ政治を掲げる独立スンニー・クルディスタンよりも世俗的なケマリスト・トルコのほうが魅力的に思えたのかもしれない。アレヴィー・クルドの中にはトルコ側について反乱軍と戦った部族もあった。
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