シェイフ・タバルスィー蜂起
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「バーブ教」の記事における「シェイフ・タバルスィー蜂起」の解説
1848年10月~49年5月。「生ける文字」ボシュルーイーらがバーブの救出を目標にマシュハドにて旗揚げ。黒旗を掲げて武装バーブ教徒700名でカルバラーに向かう。マーザンダラーンのバールフォルーシュで住民と衝突、付近のシェイフ・タバルスィー廟を要塞化し立てこもる。数度にわたる討伐を退けるが、最終的には鎮圧される。ボシュルーイーらは戦死し教団中心に打撃をうけた。この事件を境に、ガージャール朝政府は高位ウラマーの非難にもかかわらず無関心でいたバーブ教への態度を改め、叛乱者と認識した。参加者もシーア派三代イマーム・ホセインの「カルバラーの悲劇」と自らを重ね合わせていたことを示す史料もあり、熱狂的信者の存在が認められる一方で、シェイフ・タバルスィー廟という森の中の聖者廟というロケーションから、土俗的信仰を持つ集団とのかかわりも想定される。
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シェイフ・タバルスィー蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:31 UTC 版)
「バーブ教徒の乱」の記事における「シェイフ・タバルスィー蜂起」の解説
1848年10月から翌1849年5月にかけて、「生ける文字」の筆頭格であったボシュルーイーらがバーブの救出を目標にマシュハドで活動を開始した。武装したバーブ教徒約700名は黒い旗を掲げてカルバラーに向かった。ここでイラン北部マーザンダラーンのバールフォルーシュで住民と衝突し、付近のシェイフ・タバルスィー廟を要塞化して立てこもった。籠城したバーブ教徒は数度にわたって政府軍の討伐を退けたが、最終的には鎮圧された。ボシュルーイーらは戦死し、教団の中枢は大打撃をうけた。 この事件を境にガージャール朝政府は、高位ウラマーの非難にもかかわらず無関心の態度で臨んでいたバーブ教徒への態度を改め、かれらを明確に「叛乱者」と規定した。 なお、蜂起の参加者がホセイン(シーア派3代イマーム)の「カルバラーの悲劇」と自らを重ね合わせていたことを示す史料があることから、バーブ教徒たちの熱狂的信仰が確認される一方で、籠城戦の場としてシェイフ・タバルスィー廟という、森の中の聖者廟を選んだ点からは、土俗的信仰を持つ集団とのかかわりも指摘されている。
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