社会情勢とバーブ教参加階層
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 03:08 UTC 版)
「バーブ教」の記事における「社会情勢とバーブ教参加階層」の解説
19世紀後半のイランは、社会的混乱、金銀の流出、それに伴う物価高騰、対外的には度重なる敗北という状況にあり、これに対して弱体なガージャール政府は有効な対抗手段を持たなかった。このような状況への不満が、イマーム再臨の千年至福説と結びつき、バーブ教に活力を与えたというのは定説となっている。 バーブ教諸叛乱をさして、ソ連のイラン史家イワノフは、19世紀の外国製品流入による社会変動にともなう都市低所得層と農民による反封建運動という見方を示した。その後の論考もバーブ教の教義の社会革命的革命性については保留しつつも、重い租税に対する未発達な農民戦争であり、イラン国内の内部矛盾に基づく市民派運動として扱われる。 しかし1980年代以降、このような見方は否定されつつある。モーメンは、諸蜂起参加者において名前の分かるものを分析したところ、その出身階層と地方にほぼ偏りはなく一部階層を中心とした運動とは考えにくく、むしろ有力宗教指導者の改宗にしたがって支持者も改宗したのだ、とした。近藤はシェイフ・タバルスィー蜂起における地縁的結合を重視する。アマーナトは没落しつつある商人・職人・下級役人を中心と考え、黒田は蜂起参加者に占める下級ウラマー(モッラーら)の割合から、バーブ教はその千年王国思想ではなく、上級ウラマーへの反感を下級ウラマーと共有することで運動を展開させえたと考える。 またネイリーズ、ザンジャーンに顕著な地方政治における対立で利用されたという指摘もある。もともと政治的対立構図にある集団の一方が対抗的にバーブ教に改宗するというパターンである。モガッダムはバーブ教徒そのものの思想的統一性に疑問を呈し、ガージャール朝への反抗意識自体もかなりの幅があると考えている。その意味で体制派が、反対派を非難するときに「バーブ教徒」は常套句となっており、バーブ教そのもののイランでのあり方の実際をわかりにくくしている。また主要な研究者がバハイ教徒であり、やや研究に偏りが見られる点も否定できず、一方で、イラン国内のバーブ教関連史料へのアクセスは非常に困難で、また史料自体の散逸も多く、全体像のとらえにくいテーマとなっている。
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