社会情勢の悪化と日本への帰化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:52 UTC 版)
「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「社会情勢の悪化と日本への帰化」の解説
1930年代に入ると、時代は戦争へと急傾斜しつつあった。1931年の満州事変と翌年の満州国建国、1933年の日本とドイツの国際連盟脱退など、世相は不安定さを増していった。教育や文化、そして芸術は国策(軍部の意向)に従うことが強く求められ、野球やバレエなどでは英語をはじめとした外国語はすべてが漢字に置き換えられた。バレエは舞踊または舞踏と呼ばれ、扱う内容は愛国心と武勇を高揚させ、正義と聖戦を賞揚するものであることが強く要求されていた。 この時流の中で、一見して外国人とわかる外見のパヴロワ一家には日々疑いの目が向けられていた。一家は日本と日本人を愛し、社会に溶け込むための努力を続けていた。バレエスクールのスタジオには明治天皇の御真影を掲げ、新聞に掲載された皇室関連の記事は代読してもらっていた。 1933年、一家は日本への帰化を申請した。正式に申請が受理されたのは1937年6月30日で、日本人として一家の創立がなったのは同年7月10日であった。帰化に合わせてエリアナは「霧島 エリ子」(きりしま えりこ)、母ナタリアは「桜子」(らんこ)、ナデジダは「撫子」(なでしこ)と改名している。 日本への帰化が実現しても、一家に向けられる視線には相変わらず厳しいものがあった。特高警察や憲兵が日々監視を続け、出入りの人々までが心ない嫌がらせの標的となった。嫌がらせから一家を守ったのは、日ごろからの付き合いがある地域の人々や、バレエスクールに通う生徒や父兄であった。彼らは一家が危険人物ではないことを必死になって説明したという。 バレエ団の新潟公演(1934年または1935年)には、ナデジダも足の不自由な身で参加せざるを得なかった。当時の地方公演では、自分の娘に公演への参加許可を与える父兄が少なかったからである。このときの無理が原因で、ナデジダは肋膜炎を再発させたほどであった。
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