シェイフ・ウベイドゥッラーの反乱
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「トルコ・クルド紛争」の記事における「シェイフ・ウベイドゥッラーの反乱」の解説
オスマン帝国の時代には中央政府はトルコ人やクルド人の暮らすいくつかの地域に対し、半ば独立国家のように振舞うことを認めており、名目上オスマン帝国の支配する地域にいくつもの自治を行うクルド侯国が存在する状態が保たれていた。しかし1837年以降オスマン帝国はこれらの地域での主権を主張するようになり、少なくとも名目上はオスマン帝国支配下でのクルド人の自治は終わりを迎えた。その後クルド人のナショナリズムが表面化するようになった時期に関しては議論があるが、多くの学者がシェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリーの反乱(1879-81)にその時期を求めている。 ウベイドゥッラーはイラクの北部、モスル出身の宗教的指導者であり、露土戦争 (1877年-1878年)ではオスマン帝国軍のクルド人部隊の司令官を務めた。この戦争の結果締結されたベルリン条約 (1878年)には、オスマン帝国に暮らすアルメニア人とネストリウス派キリスト教徒に一定の権利を認めており、ウベイドゥッラーはこれをアルメニア国家、キリスト教国家建設の下準備であると考え危機感を強めた。ウベイドゥッラーの主導により、クルド人部族の間で政治的、軍事的同盟が組織された。この種の同盟としてははじめてのクルド人部族間での同盟となった。露土戦争の結果浮上したアルメニア問題に関してはオスマン帝国もクルド人と同様に不満を抱えていたが、帝国は武力での解決は望まなかった。結果1879年、クルド人による反乱が発生し、オスマン帝国軍により鎮圧される。この時の反乱ではウベイドゥッラーは主導的役割を果たさなかったとして罪を問われることはなかった。しかし翌年、ウベイドゥッラーはガージャール朝ペルシアに対して攻撃を仕掛ける。このペルシアへの侵入は失敗に終わったものの、ウベイドゥッラーは独立クルド国家の建設を目指したものと考えられており、クルド人ナショナリズムの最初の火を灯すことに成功している。
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