デリダによる脱構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 06:56 UTC 版)
あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす別のパラドキシカルな内容がテキスト中に含まれているとする。 マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』において西洋の形而上学伝統が論じられる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として採用されたもの。デリダは、直訳の「解体 Destruction」がもつ破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築 Déconstruction」(dé-「分離、除去」 / construction「構築、建設」)を造語した。その意味で、彼の脱構築はハイデッガーの試みを継承するものと言える。 脱構築は、言葉の内側から階層的な二項対立を崩していく手法である、といえる。それはすべてを併置し「と」という接続詞を重視するドゥルーズの思想と呼応する。デリダは、プラトン以降の哲学が、王探し、「ロゴス中心主義」(en:Logocentrism)に陥っているとし、また、エクリチュール(書き言葉、デリダにおいては二項対立で劣位に位置する概念全てに当てはまる)に対するパロール(話し言葉、王の言葉。エクリチュールとは逆に、二項対立の優位に位置する概念)の優越(en:Phonocentrism、「音声中心主義」)を批判した。とはいえ、この批判は、エクリチュールのパロールに対する優越を意味するのではない。それでは単なる階層的な二項対立の優劣逆転に過ぎない。 デリダは、プラトンの中期対話篇の一つ『パイドロス』をモティーフに、古代ギリシア語の「パルマコン」という言葉を使って、脱構築を試みている。『パイドロス』の末尾では、ソクラテスがエクリチュールを批判し、パロールの優越を掲げているが、同作品の冒頭で、イリソス川を渡りながらソクラテスとパイドロスが古い言い伝えについて雑談する際に登場する言葉が「パルマコン」である。「パルマコン」は「毒」を意味すると同時に「薬」をも意味する点で、決定不可能性をもつ。この多義性は豊かさでもある。エクリチュールは文字であるから、人の記憶を保つとともに、記憶しようという意志を奪い取る。ここに、エクリチュールのもつ「薬」でありかつ「毒」のパルマコン的意味合いがある(多義性)。パロールはエクリチュールに先立って優越するといわれるが、その劣位のエクリチュールが逆にパロールを侵食している事態をデリダは暴き出す。パロール / エクリチュールという階層的二項対立は、原―エクリチュールに先立たれ、それがこの二項対立をむしろ生み出しているのである(しかしこの生み出すものは「根源」ではない)。このエクリチュールの概念は、そのまま存在に対する差延の概念に対応する。エクリチュールの海のような多様性の中から、存在―パロールが生まれいずるのである。 ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって批判される。脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者(差延)へのまなざし (哲学)を呼び起こし、さらなる哲学の活性化を目指そうとした。したがってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところと見るべきである。 脱構築は、哲学のみならず、人文系・社会系の学問でも広く応用され、有力な批評理論の一つともなっている。
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