ディンの招集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 16:38 UTC 版)
「1963年ベトナム共和国の軍事クーデター」の記事における「ディンの招集」の解説
「トン・タット・ディン」も参照 将軍達はディンの第3軍団(英語版)の軍が首都周辺を見張っていた事と同様に、トン・ダット・ディン(英語版)将軍の協力無しにクーデターを実行する事は困難だと知っていた。彼の仲間からは野心的で自惚れが強く衝動的であると見られていたので、ディンはゴ一家から気に入られていて、ジエムが権力を掌握し続ける上で責任を負っていた極秘のカトリック組織カンラオ党(英語版)の武装部門の最高責任者に抜擢された。ジエムが同じ宗教の人物を信頼し、能力より忠誠心に基付いて昇進させていたので、ディンはカトリックに改宗した。ディンはサイゴンのナイトクラブで酔っ払った人物として知られ、CIAは彼を「基本的な日和見主義者」だと見なした。 トン・ダット・ディン(英語版)は非公式の場でジャーナリストに対しサーロイ寺襲撃事件(英語版)の責任を主張し、「私はヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア大使を打ち負かした。彼はクーデターを企画する為にここに来たが、私トン・タット・ディンは彼を屈服させ祖国を守った」と発言した。この頃に、ディンは自らを「偉大な国家の英雄」だと主張した。彼の自我はゴ兄弟によって付け込まれ、襲撃事件の後に多額のボーナスが支払われたと何度も述べた。攻撃後の陶然とした時間に、ディンはアメリカ人の顧問に「私は疑問の余地無くベトナム共和国陸軍で最も偉大な将軍だ。サイゴンの救世主だ。間も無くこの国の軍隊の頂点に立つだろう」と述べた。 直ぐに開かれた記者会見で、ディンは名指しせずにアメリカ合衆国に対し「外国の冒険家」から南ベトナムを守ったと主張した。鋭い質問を受けて、ディンは激怒した。UPI通信社(UPI)のレイ・ハーンドンがディンにどの国について言っているのかを指定するように要求したが、ディンは質問を交わした。ハーンドンは国家の英雄は国家を敵を特定出来なければならないと述べて彼を皮肉り、ディンに反米的な発言で知られたマダム・ヌーをベトナムのファーストレディと呼ぶ事を要求し南ベトナムの敵を特定する為に水を向けた。数人のリポーターがディンの発言に失笑した後、ディンは激怒して会見場から出て行った。 トン・ダット・ディン(英語版)は統合参謀本部の将校達による激論を交わしている部屋に戻り、彼の同僚はディンの自我を利用して彼らの計画に参加する事を納得させようと試みた。数回に渡る会談で、他の将校達はディンは政治権力を持つに相応しい国家の英雄だとディンに断言し、ヌーはディンがベトナムの将来において如何に重要かを分かっていないと主張した。ディンの同僚は彼が昇進して政治権力を得ると予言させる為に彼の予言師に賄賂を送る事さえした。その他の将軍達は人々がジエム大統領の組閣に不満を持っており、ベトナムは政治の場に若い活力のある将校を必要としており、彼らの存在感がベトナム共和国陸軍での落ちてゆく士気を回復させると伝えた 。彼らはディンに彼を内務大臣に、ズオン・バン・ミンを防衛大臣に、チャン・ヴァン・ミン(英語版)を文部大臣にジエム大統領に推薦するように助言した。 ディンと彼の部下の将軍達は宮殿でジエム大統領と面会し、そこでディンは大統領に内務大臣の職を求めた。ジエムはディンの同僚の目前で彼をあからさまに非難し、休暇の為と称してサイゴンの外側の中部高原のリゾート地ダラットに追放するよう命じた。ディンは彼の同僚から成功すると聞かされていたので、屈辱を受けて狼狽えた。ゴ兄弟はディンの要求に驚いて、彼を監視下に置いた。ディンは宮殿との関係が更に緊張している事に気が付いた。彼が野心的な性質を持っているとしても、他の将校達はディンがクーデター計画に加わる事に懐疑的で彼がジエム側に寝返った場合には暗殺する事を計画していたが、ディンはクーデターに加わる事を了承した。ディンの軍無しには、クーデターを実行する事は不可能だった。
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