テクニクム設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:35 UTC 版)
「イスラエル工科大学」の記事における「テクニクム設立」の解説
ナタンは長期にわたる検討の末、この技術者学校を建てるに相応しい場所はハイファであるとの考えに至った。当時ハイファは人口約2万人、うちユダヤ人は2千人ほどの小さな町であったにも関わらず、この地を選ぶ幾つかの利点があった。 同時期にトルコ政府がハイファを近隣諸国への鉄道の中央ステーションとして扱い始めていたこと トルコ政府がハイファ港の拡大を計画していたこと この二つの事実によって、ハイファは工業および交通の中心となることは明白であった。技術者学校は工業や交通に直接結びついているので、テクニオン卒業者への仕事の供給となる。しかも、正統派の影響下に置かれていたエルサレム、あるいはヤッフォと違って、ハイファのユダヤ人居住区はまだ小規模で政治の面でも宗教の面でも中心的とは見なされなかった。技術者学校がこの町をユダヤ人の新たな集合場所へと変え、都市開発を促進してくれるだろう、と。 1908年、ナタンはヴィソツキーの跡継ぎの寄付を受け、土地を買い取り始めることができた。彼は、パレスチナにおけるエズラ協会代表のエフライム・コーヘンに、ハイファで技術者学校に相応しい場所探しを依頼した。代表は、ナタンが個人的に目をつけていた場所の数カ所を調べ、二ヶ月後にシュモエル・ペヴズネルと相談した後、「ミラヴァン(原語:מיראוואן)」近郊(今日におけるハダル・ハカルメル)に46ドゥナムの土地を選んだ。この土地はもともと、数名のアラブ人地主と、テンプラー運動(原語:תנועת הטמפלרים)に所属するドイツ人によって買い取られていた。土地の登録はトルコ市民の名義によってのみ許可されるというトルコの制定によって、ドイツのエズラ協会による土地の登録は拒絶され、ナタンがイスタンブールにいるドイツ大使の力を借りてトルコ政府に圧力をかけるまでに丸二年を要した。1910年8月、この土地はエズラ協会会長のジェイムス・サイモンの名義で登録された。この土地の購入による、仲介料と登録料は合わせて、10万フランス・フランにまで上った。 資金はまだ不十分であったため、新しい組織の献金も手配されることとなった。ユダヤ国民基金(通称JNF、あるいは「カカル」)は10万フランクを寄付し、学校の役員会で代表の権を得ることとなった。シュマリヤウ・レヴィン、イェヒエル・チェルノヴ、そしてジェイコブ・シフを筆頭とするアメリカのユダヤ人グループは10万米ドルを献金した。貢献者たちの組織は、指導要領の制定に対するそれぞれ異なる要求を抱えていたが、最終的にはこの設立された組織を指導していたベルリン出身のナタンが「技術教育のための専門学校」(テクニオンの最初の名前、原語は"המכון לחינוך טכני")の実権を握ることとなった。 専門学校で学ぶ専門分野を定めるために、ナタンはドイツから幅広く集められた教育者たちと議論を行った。その結果、以下のような決定が得られた。 ドイツ語でテクニクム(טכניקום、ドイツ語原語は不明)と呼ばれる中間レベルの科学技術教育を行うこと。この技術者学校が当初テクニクムと呼ばれた所以がこれである。 テクニクムに二つの部門(学部)を設けること。一つは機械工学、もう一つが建築および公共事業(今日の市民工学)である。 卒業生には技師としての称号(学位)を与え、熟練のエンジニアの手助けをできるようにする。 テクニクムへの予備教育を行う高等学校(工業高校)を設立すること。(略称はBSMT) テクニクム建築にあたって、アレクサンダー・ベルヴァルトという名のユダヤ人建築技師がドイツから呼び寄せられた。ベルヴァルトが構造を設計した後、二年間に渡る長期精密な建築作業を開始するため、三つの特別な許可を要した。アラブ人居住者との不和やトルコ政府の怠慢が災いして、工事は停滞するばかりであった。この工事に関する施設管理側の責任者として、シュマリヤウ・レヴィン博士が任を負うことになる。公式にテクニクム定礎式が執り行われるのは1912年の4月11日となった。
※この「テクニクム設立」の解説は、「イスラエル工科大学」の解説の一部です。
「テクニクム設立」を含む「イスラエル工科大学」の記事については、「イスラエル工科大学」の概要を参照ください。
- テクニクム設立のページへのリンク