ツービートに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:18 UTC 版)
ところが、改名に次ぐ改名でもコンビは売れなかった。そんな八方塞がりの状況で、たけしはきよしに代わって主導権を握ることに。そして、またもやコンビ名の変更を、たけしは師匠の千とせに相談した。その際、たけしは「NHK(の漫才コンクール)で、三番か四番目の(賞)しかもらえなかった。それは松鶴家が古い名前だから」と訴えたところ、千とせは「じゃあ、どんなんがいいんだ」と尋ねた。するとたけしが「(千とせ)師匠が漫才をやっていたとき、テンポのいい、ビートの利いたようなのをやっていた。だからビートの利いたのをお願いします」とリクエスト。そこで千とせが「じゃあ『ザ・ビート』にするか」と提案すると、たけしが「いや、二人だからツーに」と言及。最終的に、千とせが「じゃあツービートで」と折衷案を出し、コンビ名がツービートに改名された(この改名の経緯で広く知られているのは、たけし自身が自伝でも唱えていた別の説で、そのボトルネックには「ツービートの師匠は松鶴家千代若・千代菊」という広く知られた誤解がある。実際の細かい経緯としては、まずはツービートの人気が出てきたところで、たけしたちが師匠である松鶴屋千とせを飛び越え、大師匠たる松鶴家千代若・千代菊に近づき、仲の良い関係を築いたという前段階があった。そして、そのころから「ツービートの師匠は松鶴家千代若・千代菊」と、たけし本人はもとより、様々な番組でも語られるようになり、今日も続く「たけしの師匠は松鶴家千代若・千代菊」という説が定着し、なかば“公の実績”を作られてしまった形になった。当時の千代若も、たけしの師匠としてテレビに出演することをすごく喜んでいたというので、芸人たちも事実を話しづらい状況ではあった。そういった経緯もあり、たけしが自伝でも千とせの存在をいっさい明かさず、「師匠は松鶴家千代若・千代菊」ということにしたため、コンビ名の決定の経緯も「自分たちで決めた」というものに改変されてしまった。千とせは、たけしが「テレビに出たい」とよく訴えていたため、テレビ東京で深夜番組をやっていた山城新伍に紹介し、ツービートを番組にねじ込んだこともあったという。だが、現在では「松鶴家千とせが師匠」という事実のみならず、ツービートのコンビ名が誕生した経緯も、すべてメディアや、たけしが自伝で語られるものが、大衆に広く信じられる「事実」と化してしまっているのである。こういった経緯は、当時を知る浅草の芸人や劇場関係者の間では周知の事実だったが、松鶴家千代若・千代菊も逝去し、松鶴屋千とせも表舞台から遠ざかった今となっては、千とせの事実を「やっかみ視」する人々、たけしの自伝を信奉する人々によって封殺され、より既成事実化が進んでいる状況となってしまっている)。 ツービートへの改名後、それでもヒットまでにはまだ紆余曲折があった。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となったが、決定的だったのは、大阪の新進漫才師・B&Bの島田洋七との出会いである。後に紳助・竜介も倣う、シンプルで間を減らしたテンポの速い『16ビートの漫才』『客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才』を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。 「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタはもちろん、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものをあえて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった。
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