チベット自治区・青海省その他のチベット東部
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「中華人民共和国」の記事における「チベット自治区・青海省その他のチベット東部」の解説
「チベット#チベット問題」を参照 民国期(1912年-1949年)のチベットは、アムド地方(=青海省,甘粛省の西南部など )を抑える馬一族の回族政権、カム地方の東部(=西康省)を抑える劉文輝政権、中央チベット(=西蔵,ウー・ツアン地方とカム地方西部)を抑えるガンデンポタンなどが割拠する状況であった。馬歩芳は人民解放軍に逐われて1949年8月に地盤の甘粛・青海を放棄し、重慶・香港経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。 1950年に中国政府は人民解放軍を中央チベットに向けて派兵、チャムド戦役を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌1951年、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「十七ヶ条協定」を締結(「西蔵和平解放」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。 この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された青海省・甘粛省の甘南州・四川省のガパ州(=アムド地方)、四川省のカンゼ州・雲南省のデチェン州(=カム地方の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一掃されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとでまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。 1959年に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「チベット動乱」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、ダライ・ラマ14世は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府が中国共産党に対してチベットの独立を要求している。 2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察(中国人民武装警察部隊)などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表され、同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた。 アメリカのバラク・オバマ大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つであるダライ・ラマ14世と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した。6月26日には、レディー・ガガがダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した。
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