チベット遠征と田地調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 09:04 UTC 版)
1912年(民国元年)6月、殷承瓛は西征軍総司令官(援蔵司令官)としてチベットに出征し、各地でチベット軍を破った。この際に、四川都督尹昌衡も同じくチベットに出征し、作戦上の齟齬から、雲南軍と四川軍の間で紛争が発生しかけている。しかし同年12月、殷は大過なく軍を昆明に帰還させた。同月29日、北京政府から陸軍少将兼陸軍中将銜を授与され、翌1913年(民国2年)4月12日には陸軍中将に昇進している。 1913年(民国2年)10月、蔡鍔が雲南都督を離任して北京に赴くと、殷承瓛もこれに随従して、北京総統府顧問官に任ぜられた。1915年(民国4年)1月、全国経界局清丈処処長(全国経界局督弁は蔡鍔)となる。殷は東三省や朝鮮に赴き、中国における土地の現状を学んだ。その上で、経界局秘書長周鍾嶽とともに、田地調査のための法規制定や研究に尽力している。その成果として、『経界法規草案』、『中国歴代経界紀要』、『各国経界紀要』の3つの著作をまとめた[9]。
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