ダンモウ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 05:52 UTC 版)
エセックスのリトル・ダンモウ修道院で、ベーコン裁判におけるとてもよく知られた実例が起こった。これは一般的にロバート・フィッツウォルターの家族によって13世紀に制定されたと考えられている。14世紀に書かれたW. W. スキート牧師のメモ、The Vision of William Concerning Piers the Plowman によると、結婚後12ヶ月間の間、争いごとも後悔もなく幸せだった夫婦にはベーコンが与えられることになっていた。 ジェフリー・チョーサー(c.1343–1400)の『カンタベリー物語』に収録されている「バースの女房の話」の序章で、出典を明確にするような既に読者によく知られている書き方で言及されている。18世紀半ばまでベーコンの授与が続けられており、最後に裁判で勝った記録は1751年6月20日であった。この最後のベーコン裁判は、後に版画を製作するために当時スケッチをしに出席した芸術家のデイヴィッド・オグボーンによって記録されている。彼の絵はその後出典題材としてエインズワースの小説 The Flitch of Bacon で使われた。1854年のエインズワースの小説は、何らかの形で現在まで続いていた習慣を復活させ、現在でも閏年毎に開催されるほど非常に人気がある。 行われた誓いはウィッチナーの誓いと非常に似ている。夫婦は誓いを立て、誓いの文句を唱えながら中庭の鋭い石の上に跪く必要があった。誓いを立てた後、ウィッチナーと同じように夫婦は派手な式典で獲得したベーコンと共に街中をパレードする。 歴史的なダンモウのベーコン裁判は合計6回しか成功したことで知られていないが、まだ不明なものがあると思われる(考えられるものの中ではモンタギュー・バーゴインとその妻エリザベスの例がある)。うち3つは修道院の解散に先立つもので、リチャード・セント・ジョージの家の記録から知られており、さらに3度の授与例が現在大英博物館にあるダンモウの荘園の裁判所の記録から知られている。修道院の解散後、ベーコン裁判が再び行われるまでに長い期間があったが、この伝統は1701年にトーマス・メイが修道院の所有者になった時に復活した。 ダンモウのベーコン裁判でベーコンを勝ち得た者の一覧No.夫職業妻住所日付1 リチャード・ライト Badbourge(ノリッジの近く) ヘンリー6世治世の23年目 (1444/45) 2 スティーヴン・サミュエル Little Ayston エドワード4世治世の7年目 (1467/68) 3 トマス・リー 毛織物の仕上工 Coggeshall(エセックス) 1510 4 ジョン・レイノルズ アン Hatfield Regis 1701年6月27日 5 ウィリアム・パーズリー 肉屋 ジェーン Much Eyston 1701年6月27日 6 トマス・シェイプシャフト 織工 アン 1751年6月20日 6 ジョン・シェイクシャンクス 羊毛すき アン Wethersfield 1751年6月20日 1772年6月12日にジョンとスーザン・ギルダーがベーコンをもらおうと試みた。夫妻は自分たちの要求についてしかるべき通知を出しており、多くの見物人が集まった。しかしながら、荘園領主は儀式を行わないように命じており、入れないように修道院の門を釘付けにして閉めてしまった。1809年までにはこの伝統は完全に廃れていた。1832年、引退したチーズ職人のジョサイア・ヴァインがベーコンをもらおうという要求をまた行い、レディングから妻を連れて訴え出るためダンモウまで旅してきた。ヴァインも、リトル・ダンモウの非常にそっけない執事により裁判を拒否されてしまった。1837年10月8日、『ジョン・ブル』が、サフロン・ウォールデンとダンモウの農業協会がこの習慣を復活させたと報道した。しかしながら一見したところ、このベーコンは年に一度の協会の正餐会でふるまわれただけだったようである。1851年にフェルステッドの夫婦が同様に修道院での裁判を拒否されたが、2人がベーコンに値すると考えた近くのグレート・ダンモウの人々により、ベーコンを贈られた。
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