ダンモアの遠征隊
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1774年5月早く、ダンモア知事はオハイオのイエロークリークと他の場所で、インディアンと白人入植者の間での敵対行動が始まったという知らせを受けた。これに対してダンモアは直ぐに議会に民兵隊を組織し、オハイオ川渓谷に遠征隊を送る費用捻出を要求した。この部隊を率いたダンモアはオハイオ川まで進出しそこで部隊を2つに分けた。1つはダンモア自身の指揮でピット砦からオハイオ川を下る、もう1つは、アンドリュー・ルイス大佐の指揮でユニオン宿営地(現在のウエストバージニア州ルイスバーグ)からグレート・カノーハ川の河口でダンモアと落ち合うというものだった。この全体計画の元で、ダンモアはピット砦に行き、さらにオハイオ川を下って9月30日にフィンキャッスル砦(後のバージニア州ヘンリー砦)に着いた。この砦はダンモアの命令でホィーリングに最近建設されたものだった。ルイスの部隊は、1,100名の兵力で、ユニオン宿営地からカノーハの上流に進み、続いて計画通りの集合地点に向かって川を下った。ルイス隊は10月6日に到着したが、ダンモア卿は既にそこに居なかったので、オハイオ川上流に伝令を送りカノーハ河口に到着したことを知らせた。10月9日、ダンモアからの伝令が到着し、計画通りカノーハ川河口に行く代わりに、その時はホッキング川河口に居り、そこから直接シオトのショーニー族集落に向かうことを伝えた。同時にダンモアはルイスにオハイオ川を渡ってショーニー族集落まで来るように命令を伝えた。 10月10日、ルイス隊がオハイオ川を渡り始める前に、コーンズトーク酋長らインディアン戦士団に急襲された。ポイント・プレザントの戦いはほぼ終日続き、白兵戦になった。ルイス隊は、ルイスの兄弟を含み200名の損失を受けたが、結果的にオハイオ同盟を打ち負かし、オハイオ川を渡って撤退させた。ダンモアとルイスはそれぞれの地点からオハイオに入り、シオトのショーニー族集落から13kmの地点まで進軍し、シッポ・クリークにシャーロット宿営地と呼ぶ一時的な宿営地を造った。 ここでダンモア達はコーンズトーク酋長に会って、停戦交渉を始めた。ローガン酋長は戦闘を止めると言っていたが、正式の停戦交渉の場には出席しなかった。ショーニー族は停戦条件を飲んだが、ミンゴ族は拒否した。このためにウィリアム・クロウフォード少佐がシークンクあるいはソルト・リック・タウンというミンゴ族の集落の一つに送られた。クロウフォード部隊は240名の戦力でミンゴ族を虐殺し、彼らの集落を破壊した。 これらの作戦行動と、シャーロット宿営地でのショーニー族およびミンゴ族の降伏で実際の戦争は終わった。ダンモア総督は直ぐに帰途に就き、レッドストーンとユーギオゲニー川のグレート・クロッシングを経てカンバーランド砦に着き、そこからバージニアの首都に帰った。
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