ダンモアの遠征隊とは? わかりやすく解説

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ダンモアの遠征隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 22:11 UTC 版)

ダンモアの戦争」の記事における「ダンモアの遠征隊」の解説

1774年5月早く、ダンモア知事オハイオのイエロークリークと他の場所で、インディアン白人入植者の間での敵対行動始まったという知らせ受けた。これに対してダンモアは直ぐに議会民兵隊を組織しオハイオ川渓谷遠征隊を送る費用捻出要求した。この部隊率いたダンモアはオハイオ川まで進出しそこで部隊2つ分けた1つはダンモア自身指揮ピット砦からオハイオ川を下る、もう1つは、アンドリュー・ルイス大佐指揮ユニオン宿営地現在のウエストバージニア州ルイスバーグ)からグレート・カノーハ川の河口でダンモアと落ち合うというものだった。この全体計画の元で、ダンモアはピット砦行き、さらにオハイオ川下って9月30日フィンキャッスル砦(後のバージニア州ヘンリー砦)に着いた。この砦はダンモアの命令でホィーリングに最近建設されたものだったルイス部隊は、1,100名の兵力で、ユニオン宿営地からカノーハの上流に進み続いて計画通り集合地点向かって川を下ったルイス隊は10月6日到着したが、ダンモア卿は既にそこに居なかったので、オハイオ川上流伝令送りカノーハ河口到着したことを知らせた10月9日、ダンモアからの伝令到着し計画通りカノーハ川河口に行く代わりにその時はホッキング川河口居り、そこから直接シオトのショーニー族集落に向かうことを伝えた同時にダンモアはルイスオハイオ川渡ってショーニー族集落まで来るように命令伝えた10月10日ルイス隊がオハイオ川渡り始め前に、コーンズトーク酋長インディアン戦士団急襲された。ポイント・プレザントの戦いはほぼ終日続き白兵戦になったルイス隊は、ルイス兄弟含み200名の損失受けたが、結果的にオハイオ同盟打ち負かしオハイオ川渡って撤退させた。ダンモアとルイスそれぞれの地点からオハイオ入り、シオトのショーニー族集落から13kmの地点まで進軍し、シッポ・クリークにシャーロット宿営地と呼ぶ一時的な宿営地造った。 ここでダンモア達はコーンズトーク酋長会って停戦交渉始めたローガン酋長戦闘止めると言っていたが、正式の停戦交渉の場には出席しなかった。ショーニー族停戦条件飲んだが、ミンゴ族は拒否したこのためウィリアム・クロウフォード少佐がシークンクあるいはソルト・リック・タウンというミンゴ族の集落一つ送られた。クロウフォード部隊240名の戦力ミンゴ族を虐殺し、彼らの集落破壊した。 これらの作戦行動と、シャーロット宿営地でのショーニー族およびミンゴ族の降伏実際戦争終わった。ダンモア総督直ぐに帰途に就きレッドストーンとユーギオゲニー川のグレート・クロッシングを経てカンバーランド砦に着き、そこからバージニア首都帰った

※この「ダンモアの遠征隊」の解説は、「ダンモアの戦争」の解説の一部です。
「ダンモアの遠征隊」を含む「ダンモアの戦争」の記事については、「ダンモアの戦争」の概要を参照ください。

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