ダンモア卿の宣言
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「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の記事における「ダンモア卿の宣言」の解説
ダンモア卿は1775年11月7日に「ダンモア卿の宣言」、または「ダンモア卿の解放提案」と呼ばれるものを発した。これは愛国者の主人のもとを離れ、イギリス側についた奴隷に自由を与えるというものだった。この宣言は北アメリカでは初の大量奴隷解放だった。ダンモアはバージニア総督として奴隷貿易に反対する法案への署名を保留していた。しかし、戦争が終わるまでに、推計10万人の逃亡奴隷がイギリス軍に逃げ場所を求め、大半は非戦闘員の役割を担ったが、約2万人は従軍した。 ダンモアはこれら黒人ロイヤリストをエチオピア連隊に組み込ませた。しかし、11月のケンプスランディングの戦い後、ダンモアは自信過剰となり、12月9日のグレートブリッジの戦いでの敗北を呼び込むことになった。この敗北後はその軍隊とバージニアの多くのロイヤリストをイギリスの艦船に乗せた。当時天然痘が流行り出しており、これが悲惨な結末に繋がった。特に解放奴隷の場合、エチオピア連隊800名のうち500名ほどが死んだ。
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