ダンロップによるドッチ発見の報
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「カン・ケク・イウ」の記事における「ダンロップによるドッチ発見の報」の解説
1999年3月(別の文献では4月になっているがこれは不正確である。)に、ドッチはアイルランド生まれのジャーナリストのニック・ダンロップ(Nic Dunlop)によって偶然発見された。地雷除去組織の1人と共にバッタンバンから出かけたダンロップはサムロート近くのタ・サン(Ta Sanh)で、ハン・ピン(Hang Pin)と名乗るカンボジア人に出会った。この人物がドッチだった。ARC(アメリカ難民委員会)のロゴが胸に入った白いTシャツを着て、完璧な英語を話しながら、自分は数学の教師だったこと、もともとはプノンペンに住んでいたこと、最近になってタイ国境の難民キャンプで働き始めたこと、1997年からアメリカ難民委員会で働き始めたことをダンロップに語った。ダンロップは、S-21で発見されたドッチの写真のコピーを持ち歩いておりすぐにハン・ピンがドッチであることに気づいた。翌4月にダンロップは、ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー誌のネト・セイヤー記者と共に再びドッチのもとを訪れた際、その過去が発覚するとドッチは自らの罪を認め謝罪した。5月にドッチ発見の報がファー・イースタン・エコノミック・レヴュー誌に載せられた後、ドッチは行方をくらませた。一時、ドッチはリタイアしたクメール・ルージュのリーダーたちの命令で暗殺されたのではないかとの噂が広がったが、間もなく、ドッチはカンボジア政府に投降した。ドッチはヘリコプターでプノンペンへ移送されたあと、厳重な警備の下、刑務所に収容された。ドッチは1999年5月10日から2007年7月30日までの間、カンボジア軍事法廷の下で刑務所に拘束されていたが、後にカンボジア特別法廷は、これが違法な拘束であったと認定している。2007年7月31日に起訴されてカンボジア特別法廷に送られた。検察側は、終身刑を求刑するところを、カンボジア当局による不法拘留を考慮して45年へ変更、更に他の減刑要素を斟酌して40年の求刑をした。一方、ドッチはS-21で行われた犯罪に対する「法的、倫理的」責任を認めたにも関わらず、最後になって無罪を主張し、釈放を求めた。ドッチの国際弁護団は、ドッチのこの主張とは距離を置いていたようだが、多くの減刑要素があること、1999年5月10日以降拘留されていた事実、公判に時間がかかりすぎたことを考慮するように求めた。2010年7月26日カンボジア特別法廷は、人道に対する罪とジュネーブ条約の重大な違反を認め、ドッチに対し35年の禁固刑の判決を下した。ドッチは自分が、民主カンプチアの「上級指導者」でも、民主カンプチア時代に行われた犯罪に「最も責任のある人物の1人」でもない、したがってカンボジア特別法廷は自分を裁くことができないと主張し、上訴した。また弁護側は、カンボジア特別法廷は2009年のカンボジア刑法第95条を誤って解釈しており終身刑を課すことはできない、法廷が課すことのできる刑罰は最高で30年である、との主張を行った。これに対し検察側は、カンボジア特別法廷法第39条では「5年から終身刑まで」課すことができること、カンボジア刑法第668条により、カンボジア特別法廷法はカンボジア刑法に優越することを主張し、検察側も上訴した。2012年2月、上訴審で一審の禁固35年の判決が破棄され最高刑の終身刑判決を受けた。
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