ダンビルにおける公民権運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 02:50 UTC 版)
「ダンビル (バージニア州)」の記事における「ダンビルにおける公民権運動」の解説
1963年の夏に、バージニア州での公民権運動で一連の暴力沙汰がダンビルで起こった。5月31日、ダンビル・クリスチャン革新協会として組織された黒人社会の代表達がダンビルにおける人種差別と職業差別の停止を要求した。白人商人のボイコットが宣言され、市役所への行進が続いた。行進参加者の多くは高校生だった。彼等は棍棒で武装した警察と市民労働者と出会った。抗議者達は消防用ホースで水を掛けられ、棍棒で殴られた。抗議者の13人がウィンスロー病院に収容され、背中の痛みを訴えた女性一人以外はその夜に解放された。彼女は夜通し留め置かれ、翌朝解放された。多くの警官も負傷しており、それはあったとしても大したことは無かったが、警官の負傷に注意が集められた。行進などその他の抗議が数週間続けられた。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがダンビルにきてハイストリート・バプテスト教会で警官の残忍性について話した。キングは南部でこれまで見た中でも最悪の警官による残忍さだと言った。実際にキングは警官とデモ参加者の間の衝突現場に居たわけでも見たわけでも無かった。 学生非暴力協調委員会がダンビル・クリスチャン革新協会支援のために、ダンビルにオーガナイザーを派遣した。彼等は国道29号線沿いのハワード・ジョンソン・ホテルやレストランでのデモを含め、抗議行動を導くことに貢献した。このホテルは黒人に対する差別で知られていた。特別大陪審は、ダンビル・クリスチャン革新協会、南部クリスチャン指導会議、および学生非暴力協調委員会の13名の活動家を、「ジョン・ブラウン」法違反の廉で告発した。この法律は奴隷蜂起のあった1830年に成立し、「白人に対して暴力行為や戦争を有色人種に扇動したとき」に重罪にあたるとしていた。1859年に奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウンがハーパーズ・フェリーを襲撃した後で、彼を有罪とし絞首刑にしたために、この法律は1860年に「ジョン・ブラウン」法と呼ばれるようになった。 8月の終わりまでに、ダンビルで600人以上の抗議者が逮捕され、暴力扇動、侮辱、不法侵入、無秩序行動、襲撃、許可無しの行進および逮捕に対する抵抗の廉で告発された。この告発で多くの者が逮捕されたために、しばしば刑務所は一杯となり、抗議者達はダンビル近辺に位置する管轄区域にある拘留施設に収容された。このデモ行動はダンビルにおける人種差別撤廃に失敗し、1964年の公民権法成立まで差別が残った。
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