ダイナモ作戦
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ダイナモ作戦(ダイナモさくせん、Operation Dynamo)は、第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼーが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられた[1]。ダンケルクからの撤退(Dunkirk evacuation)とも。
- ^ a b Holmes (2001); p. 267
- ^ a b c Liddell Hart (1999)
- ^ 英仏軍50万、ダンケルクへ総退却(『東京朝日新聞』昭和15年5月31日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p370 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ Keegan (1989)
- ^ 敗退連合軍の艦船二十六隻、撃沈される(『東京日日新聞』昭和15年5月31日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p371
- ^ Liddell Hart (1999); p. 79
- ^ Murray and Millett (2000); p. 80
- ^ Keegan (1989); p. 81
- ^ a b c d Murray and Millett (2000)
- ^ ダンケルク陥落、連合軍四万捕虜に(『東京日日新聞』昭和15年6月4日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p371
- ^ http://www.francobritishcouncil.org.uk/showdetails.php?pub_id=51
- ^ Mordal, J., Dunkerque (Paris, Editions France Empire, 1968. p496
- ^ Churchill (1959); p.280
ダンケルク大撤退
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「バートラム・ラムゼー」の記事における「ダンケルク大撤退」の解説
ラムゼーは1938年には海軍を退役した。しかし、1年後に、枢軸国の脅威に対応するためにウィンストン・チャーチルによって軍に呼び戻された。ラムゼーは中将に昇任し、1939年8月24日、ドーバー司令官(英語版)に任命された。彼の任務には、予想される駆逐艦の襲撃に対する防衛、イギリス海峡間の軍事交通の保護、潜水艦のドーバー海峡の通過の遮断を監督することが含まれていた ドーバー司令官である中将として、ラムゼーはダイナモ作戦、いわゆるダンケルク大撤退の責任者となった。ドーバー城の地下のトンネルで作戦計画を練り、ラムゼーとその部下は9日間働き通しで、フランスにおいてナチス・ドイツ軍に追い詰められた軍の救出を行った。ダンケルクの海岸から338,226人のイギリスおよび連合国の兵士の救出に成功したことにより、ラムゼーは作戦について個人的に報告するようにジョージ6世に求められ、そしてバス勲章を授与された。 ダイナモ作戦が完了した後、ラムゼーは予想されるドイツ軍の侵攻からドーバー海峡を守らなければならないという大きな問題に直面した。約2年にわたって、彼は軍を指揮して制海権の維持に務め、そしてふたたび軍公報において特別勲功者として表彰された。ドイツの戦艦シャルンホルストおよびグナイゼナウが護衛とともに1942年2月にイギリス海峡を超えたとき、ラムゼーは指揮に当たっていた。イギリス側はこれに対応するため、フラー作戦を計画したが、イギリス軍は不意を突かれ、ドイツの軍艦の通過を阻止する試みは失敗した。 1942年4月29日、ラムゼーはヨーロッパ上陸作戦の海軍司令官に任命されることとなったが、しかし作戦は延期され、ラムゼーは 北アフリカ上陸作戦 (トーチ作戦)における連合国の海軍副司令官となった。 1943年の連合国のシチリア島上陸作戦のあいだ、ラムゼーは東部担当部隊の海軍司令官となり、陸海軍共同作戦による上陸の準備にあたった。
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