ソポチコ神父との出会い
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「ファウスティナ・コヴァルスカ」の記事における「ソポチコ神父との出会い」の解説
1933年5月下旬にファウスティナはヴィルノに庭仕事をする係として転属になり、野菜を育てる仕事に就いた。彼女はヴィルノに1936年の5月まで約3年ほど留まった。ヴィルノ修道院は当時は18名しか修道女がおらず、大きな建築物と言うより、2、3軒の家が散らばって成り立っていた。 ヴィルノに付くとまもなく、ソポチコ神父(英語版)が新たな聴罪司祭となった。 ソポチコ神父はステファン・バートリ大学(現在はヴィリニュス大学と呼ばれている)の牧会学の教授でもあった。 最初にソポチコ神父にゆるしの秘跡を受けに行く時、彼女はイエスに会って会話をした経験があることを伝えた。そして、イエスが彼女に求めていることも伝えた。 1933年その後、何度かソポチコ神父が修道院付きの医師で精神科医でもあるヘレナ・マチエイェフスカ(Helena Maciejewska)に、ファスティナの精密な精神鑑定を受けさせることを主張した。ファウスティナはその鑑定を受け、健全な精神の持ち主であると宣言された。 その後、ソポチコ神父は、ファウスティナと信頼関係を持ち始め、彼女の努力を援助した。ソポチコ神父はファウスティナに日記を付けるように、そして彼女が報告したイエスとの会話を記録するようにアドバイスした。 ファウスティナはソポチコ神父に聖なる慈しみのイメージについて教え、1934年の1月にソボチコ神父は彼女を大学教授で画家であるエウゲニウシュ・カジミエロフスキ(Eugeniusz Kazimirowski)を紹介した。 1934年の6月になるとカジミエロフスキはファウスティナとソポチコ神父の指示を元にした絵画を完成させた。それがファウスティナが見た唯一の神の慈しみのイメージ画であった。神の慈しみのイメージのイエスの顔を、既に有名なトリノの聖骸布と重ね合わせて見ると、大きな類似点があることが分かる。このカジミエロフスキのイメージ画は、1934年にファウスティナの指示によって描かれたものだが、 神の慈しみの画像の中で最も慕われたものとなっている。 ファウスティナは1935年の19日の聖金曜日に、日記 (ノート1、414)を書き、イエスが彼女に神の慈しみのイメージが公に崇敬されることを望んでいることを伝えたことを書いている。その1週間後の1935年4月26日、ソボチコ神父は神の慈しみについて、最初の説教をした。そしてファウスティナはその説教のミサに参列した。1935年の4月28日、神の慈しみのイメージ画が飾られている間の最初のミサは、復活祭の後の最初の日曜日であった。そのミサにもファウスティナは参列した。この日は聖年の最後の罪の贖いの儀式が教皇ピウス11世によって執り行われた日でもあった。 ソポチコ神父は、ヤウブルジコフスキ大司教の(Jałbrzykowski)許可を得て、夜明けの門の教会の入り口に神の慈しみのイメージ画を設置した。ヴィリニュスに派遣されている間の1935年の9月13日に、ファウスティナは神の慈しみのチャプレットのビジョンを日記に書いている(ノート 1 476).。このチャプレットはロザリオの3分の1の長さである。ファウスティナは慈しみのチャプレットの祈りの目的を3つあげている。慈しみを得るために、キリストの慈しみを信じるために、そして、その慈しみを他に示すために、である。 1935年の11月にファウスティナは新しい神の慈しみに身を捧げる修道会のルールについて書いている。12月には彼女はヴィリニュスの家を訪れた。その家は彼女がヴィジョンで観た最初の黙想の修道院として観た家であった。 1936年の1月にファウスティナはヤウブルジコフスキ大司教に会いに行き、神の慈しみの修道会について話し合った。しかし大司教はファウスティナに自分が終身の誓願をたてた現在の修道会を思い起こすようにと言った。1936年の3月にはファウスティナは自分の所属長に修道会を離れて、神の慈しみに特別に身を捧げる新しい修道会を作ることを考えていると伝えた。しかし、彼女はワルシャワの東南にあるワレンドフ(Walendów)に転勤させられた。 彼女はイエスが次のように言ったと書き記している。「私の娘よ、どんなことでもしなさい。私の神の慈しみの力があなたの中で満ち足りている。私はあなたに不足しているものを補う。」
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