セインツ退団以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 01:25 UTC 版)
「モーテン・アンダーセン」の記事における「セインツ退団以降」の解説
1995年、サラリーキャップの影響でキッカーに高年俸を支払うことをよしとしないセインツの方針(サラリーを40%カットしようとした。)によりチームをカットされてアトランタ・ファルコンズに入団した。この年の12月、ニューオーリンズ・セインツ戦ではNFLのキッカーとして史上初めて1試合で50ヤード以上のFG3本を成功させた。 1996年の最終週ジャクソンビル・ジャガーズ戦では30ヤードの決勝FGを失敗、これにより創設2年目のジャガーズはプレーオフ出場を果たした。 この2年後、1998年シーズンチームは14勝2敗でシーズンを終えて15勝1敗で終えたミネソタ・バイキングスとNFCチャンピオンシップゲームで戦った。この試合ではそれまで44回連続でFGを成功させていたバイキングスのキッカー、ゲイリー・アンダーソンが残り2分を切ったところで38ヤードの決勝FGを失敗、オーバータイムにアンダーセンは38ヤードの決勝FGを決めてチームを初のスーパーボウルに導いた。第33回スーパーボウル出場を果たしたがデンバー・ブロンコスに敗れた。 1999年にニック・ロウリーを抜きFG成功数で歴代2位となった。ファルコンズには1995年から2000年まで6シーズン在籍し、プロボウルに1回選出された。 2001年再び年俸を抑制したいチーム方針からカットされ同年8月にニューヨーク・ジャイアンツと契約した。この年彼はFG28本中23本を成功させた。 2001年シーズン終了後にフリーエージェントとなった彼は2002年3月カンザスシティ・チーフスと契約し入団した。この年、彼はゲイリー・アンダーソンと共にジョージ・ブランダが持つ通算得点記録を追い抜いたが右ひざを痛めて故障者リスト入りし最後の2試合を欠場、連続試合出場が248試合で途絶えた。2003年3月、チーフスと再契約を結んだ彼はブランダのFGアテンプト記録をアンダーソンとともに追い抜いた。 2004年のオフシーズン、CFLでプレーしていた新人のローレンス・タイニーとのポジション争いに敗れて最終ロースターカットでチーフスから放出されたがすぐにミネソタ・バイキングスが2年契約を結んだばかりのジャーニーマン、ブレット・コンウェイをカット、アンダーセンと契約を結んだ。年齢と共に特にキックオフの飛距離の衰えが見られた彼はシーズン終了後フリーエージェントとなったがどのチームとも契約できずNFLヨーロッパでプレーしたいと述べた。 2006年1月、デンマーク・アメリカンフットボール殿堂の最初のメンバーに選ばれた。この年、アトランタ・ファルコンズのパンター、マイケル・コーネンがキッカーを兼任していたが最初の2試合でFG8本中2本しか成功させることができなかったため、ファルコンズよりアンダーセンに声がかかって契約、第3週より出場した。彼の復帰初戦はハリケーン・カトリーナの被害から復興中のニューオーリンズ、ルイジアナ・スーパードームで行われたマンデーナイトフットボール、セインツ戦であった。この試合でキャリア9回目となる5本のFGと2本のPATを成功させ、その週の週間MVP(スペシャルチーム部門)に選ばれた。これはこの賞が1984年に創設されて以来最年長での受賞となった。 12月16日のダラス・カウボーイズ戦でアンダーソンの記録を更新し、NFL通算得点1位となった。また翌週12月24日のカロライナ・パンサーズ戦でFG成功数でもアンダーソンを抜き歴代1位となった。 2007年9月16日、ファルコンズの新人キッカー、マット・プレイターが2本のFGを失敗した翌17日、ファルコンズと契約を結んだ。この年彼はFG28回中25回成功、成功率89.3%と自己最高をマークした。 しかし2008年ファルコンズがより飛距離の出せるジェイソン・イーラムと契約を結び、彼はどのチームとも契約を結べないまま同年12月にひざの故障を理由として2,544得点のNFL記録を残し48歳で現役引退を発表した。この年彼はウォルター・キャンプ・マン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 2009年11月、ニューオーリンズ・セインツの殿堂入りを果たした。 2017年2月4日、プロフットボール殿堂入りが発表された。
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