スミソニアン体制崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 01:36 UTC 版)
「ニクソン・ショック」の記事における「スミソニアン体制崩壊」の解説
翌年1972年3月になると当時のEC6か国(西独・仏・伊及びベネルクス3国、この当時の英は未加盟)が域内の国内通貨は固定相場とするが域外のドルに対しては固定相場を放棄して変動相場制に移行する措置 をとった。しかしドル売りの動きは止まらず、英国のポンドに投機で売り浴びせられて、6月23日にイギリスが変動相場制に移行。翌1973年になるとイタリアの政界混迷でイタリア人によるスイスフラン買いが増え、スイスフランが変動制に移行した。やがて投機はドルに向かい西独で連邦銀行がドルを買い支えたが市場閉鎖に追い込まれた。2月8日にボルカー財務次官が来日して愛知揆一蔵相と会談し、10%のドル切り下げで、円を10%切り上げるように要請して来た。愛知蔵相は日本が取れるのは円切り上げでなくフロートだと主張した。その後結局、日米独間の折衝で円は対ドルで17〜20%切り上げに相当する1ドル257〜264円で変動させることで合意が成立した。2月12日にシュルツ財務長官が記者会見でドルの10%切り下げを発表し、2月14日に円は変動制に移行した。これで一応スミソニアン体制は落ち着いたと思われたが、今度は金相場が暴騰。マルクにも投機が集中し3月1日に西独連銀のドル買いがわずか1日で30億ドルに達し翌3月2日に閉鎖に追い込まれた。3月9日と16日にパリで主要14ヵ国の通貨会議が開かれたが、19日に市場が再開された時には殆どの国が共通フロートに踏み切っていた。ここに至って、なし崩しに先進国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。 戦後、ブレトン・ウッズ体制が四半世紀続き、その後にスミソニアン体制を作ったがわずか1年3ヶ月しか維持できなかった。これは70年代に入ってから、アメリカはすでに固定相場制を維持できる経済力を失い、戦後から続いた国際金融体制で自国の国力を背景に統制することがもはや困難になったことを意味していた。西欧各国と日本の台頭がアメリカ経済の衰退を招き、固定相場の安定が失われていった。日本も1973年2月に変動相場制に移行して以降、固定相場制に戻ることなく、1976年1月、ジャマイカのキングストンで行われた国際通貨基金 (IMF) 暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。この変動相場制の時代がそれから40年以上続き今日に至っている。 そして、「1971年のニクソンショック以降、普通の価値を有していたドルが変動することになり、債権や株式、そして原油の先物市場がつくられ市場経済化が始まった。」 と言われるように、金融の自由化が進んで金融市場は拡大した。国際的な資本移動が活発化し、先進国の金融自由化とともに新興国向けの投資も増加し、新興国では外国資本を流入させるためにドルに対する固定相場制を維持する国もあった。このような状況によって、ブレトンウッズ体制の終了はドルの需要をより高める結果をもたらした。
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