スミソニアン協会の指導者
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「チャールズ・ウォルコット」の記事における「スミソニアン協会の指導者」の解説
ウォルコットは1907年にスミソニアン協会の会長となり、米国地質調査所の所長も引き続き務めた。バージェス頁岩にカンブリア紀の化石を発見した翌年の1910年に、ウォルコットは、2人の息子と共に、その地域に行き、化石のあった頁岩のある地点より上の尾根の地層を調べ、化石を含む地層帯を、事実上発見した。1919年から1924年の間、ウォルコットは何度もその地に足を運び、彼の名にちなんでウォルコット石切場と名付けられた所から、65,000点以上もの化石を収集した。 しかし、負の側面もある。航空機の発明者としてのライト兄弟の功績を決して認めなかったのである。これには、スミソニアン協会の前会長であるサミュエル・ラングレーが航空機開発の先駆者でありながら、1903年に「エアロドローム号」で行った飛行実験に失敗したことにあると見られている。ラングレーはアメリカ海軍から資金援助を受けていたために、この失敗は世論から激しい非難を受け、スミソニアン協会にとって大きな屈辱となった。 ウォルコットはライト兄弟と特許について係争していたグレン・カーチスに資金援助を行った。その上で、かつてラングレーが失敗したエアロドローム号の飛行実験を1914年に行い、成功させた。この結果を受けて、ウォルコットはスミソニアン協会年次報告に「これまでの実験によって、ラングレーが有人飛行のできる飛行機の製作に世界で初めて成功したことが証明された」と掲載した。しかし、実験当時のエアロドローム号には、カーチスによりほとんど原形をとどめないほどに徹底した改造が施されていた。エアロドローム号は「人類初の飛行機」としてワシントン国立博物館に展示されたが、この時のエアロドローム号は、1903年当時の姿であったという。 もちろんオーヴィル・ライトは激しく非難したが、ウォルコットやスミソニアン協会が受け入れることはなかった。スミソニアン協会がライト兄弟の功績を認めたのはウォルコットの死後、後任のチャールズ・アボットの代になってからのことであった。現在、ライト兄弟のライトフライヤー号はスミソニアン協会が管理する国立航空宇宙博物館に展示されている。
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