スミソニアン体制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 01:36 UTC 版)
「ニクソン・ショック」の記事における「スミソニアン体制へ」の解説
変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話 が出ていた。11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12〜13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドゥー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。 12月15日に水田蔵相は佐藤首相を訪ね交渉前の最後の打合せを行った。首相は米国がドル切り下げに踏み切ったので「切り上げ巾も大巾でも余り影響混乱はないと思へる」としたが口頭では「然し14%台にとどめ度い」と蔵相に述べている。ただ別には「20%以下ならいい」と聞いたという話もあり、首相はドル切り下げで多少とも切り上げ率が高くなっても影響はないと考えている見方もできる。決着が付いた後の情報が入って「解決した事はとも角一安心」と日記に記している。 1971年12月17〜18日、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議 が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った。 その中で日本円は、従前の1ドル=360円から16.88% 切り上げされ1ドル=308円となった。この日本円の為替レートが決まると他のマルク以下のレートが決まって行った。この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通貨調整をした国は50か国に及んだ。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、ここにきて日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。 これを受けて、ニクソンショック後の8月28日から始まった変動相場制が、同年12月19日より再び固定相場制に戻り、なおかつ前日よりも円高の308円への切り上げ(ドルから見れば切り下げ)が実施された。しかし佐藤首相は自身の日記に12月21日付けで「水田君が八時半に来る。ほんとにご苦労でしたが苦労甲斐のある仕事で…市場も堅調…為替相場も平穏無事…。下限に近く三百十四円程度…」と述べている。こうしてニクソン大統領は8月15日に大統領が発表した政策の最大の目的であったドルの大幅な切り下げに成功した。
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