スペイン異端審問の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 00:58 UTC 版)
「スペイン異端審問」の記事における「スペイン異端審問の変遷」の解説
1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。異端審問を受けた被告の処罰はしばしば都市の広場で行われた。異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。 異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。裕福なフダイサンテ(スペイン語版)(隠れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。 宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者ということで釈放されることが多かった。 17世紀に入ると、審理件数は減少の一途をたどり、18世紀になるとほとんど機能しなくなる。スペインにおける異端審問が正式に廃止されたのはナポレオン・ボナパルトの支配を受けた1808年である。ナポレオンの元でスペイン王となったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問の廃止を決定したが、その決定には反発も根強く、その後いったん復活するが、もはや実効性はなく、1834年摂政マリア・クリスティーナのもと、完全に廃止となった。 スペイン異端審問の正確な被害者数を知ることは難しいが、ある研究者はトマス・デ・トルケマダの15年の在職期間中に2000人ほどのユダヤ人が火刑になったと考えている。イスラム教徒やイスラムからの改宗者の犠牲者はそれよりずっと少なかったと考えられている。最新の研究によれば、スペイン異端審問において12万5千人近くが裁判を受けたが、実際に死刑を宣告されたのはそのうち1200人~2000人程度で、ほとんどの被告は警告を受けるか、無罪が証明されて釈放されたとされている。どうやらスペイン異端審問には(スペインを批判するために用いられた)「黒い伝説」の一部として、誇張され過大に語られてきた部分もあると見られる。
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