スペイン立憲革命とメキシコ独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 07:52 UTC 版)
「メキシコ独立革命」の記事における「スペイン立憲革命とメキシコ独立」の解説
イトゥルビデのオアハカ遠征の任務は、偶然にもスペイン本国でのフェルナンド7世の独裁政治に対する軍事クーデターの成功と同時期であった。クーデターの指導者、ラファエル・デル・リエゴ大佐は南アメリカの独立運動鎮圧のため国王が編成した遠征軍の指揮を任されたが反旗を翻し、リベラルな「1812年憲法」復活に同意するよう国王に強いて、スペインに自由主義が蘇った。(スペイン立憲革命) 自由主義運動の成功のニュースがメキシコに届くと、イトゥルビデはこれを、メキシコを支配する王党派に対する脅威であるとともに、クリオーリョがメキシコの支配権を握る機会でもあるとみた。イトゥルビデの思い通り、植民地の保守派・王党派は母国の自由主義臨時政府に対して反抗し立ち上がり、皮肉にもこれがメキシコのスペインからの独立につながった。イトゥルビデはビセンテ・ゲレーロ軍との最初の衝突の後、植民地政府への忠誠を捨て、反乱軍リーダーのゲレーロと会談し、新しい独立闘争の原則について論議した。 イグアラ(Iguala)の町での駐留の間、1821年2月24日、イトゥルビデはメキシコのスペインからの独立のための三原則(もしくは『保証』)『イグアラ綱領』(Plan de Iguala)を発表した。 メキシコは、スペインから迎え入れるフェルナンド7世国王か、保守的なヨーロッパ諸国から迎え入れる王子が支配する独立君主国となる 土着のクリオーリョと、スペイン生まれのペニンスラールは平等な権利と特権を有する カトリック教会はメキシコにおける特権と宗教的独占を保証される イトゥルビデは彼の率いる軍隊がイグアラ綱領を受け入れたと確信した後、ゲレーロに対し自分の軍隊と合流し、政治的に保守的な新しい独立計画を実現するのを手助けしてほしいと説得した。こうして新しい軍隊、「三つの保証軍(Ejército de las Tres Garantías)」がイグアラ綱領実現のためイトゥルビデの指揮下動き出した。この計画案は広い基盤に基づいていたため、王党派も愛国派も満足するものとなった。スペインからの独立という目標と、カトリック教会の保護は、メキシコの全党派を一体化させたのである。 イトゥルビデはグアダルーペ・ビクトリアなど各地にいたゲリラ的反乱軍を合流して進軍し、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切ることに成功した。1821年8月24日にベラクルス州コルドバで、イトゥルビデと副王との間でイグアラ綱領を確認するコルドバ条約が結ばれ、メキシコの独立は決まった。こうして1821年9月15日、イトゥルビデは軍を率い、メキシコシティに抵抗なく入ることに成功し、一方スペイン軍は撤退して戦争は終わった。 この後イトゥルビデのもと新憲法を決める議会が開催されたが、君主のなり手についてはヨーロッパのどこからも良い返事がなかった。フェルナンド7世はメキシコのスペイン植民地復帰を望んでおり、他国の王室もスペインの立場を考えメキシコ王になってほしいという申し出を断った。1822年7月21日、イトゥルビデ自らが皇帝「アグスティン1世」を名乗って君主となり議会から承認され、第一次メキシコ帝国が成立した。
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