スペイン統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 20:18 UTC 版)
「フランシスコ・フランコ」の記事における「スペイン統一」の解説
その後、フランコはドイツやイタリア、ポルトガルの支援を受けて、共和派勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれ、空・海軍の大部分は共和国側についたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満州国を承認したのはその見返りであるとされている。 なお、フランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、独伊軍、そして政府からの強力な支援を受ける反乱軍に対する劣勢は覆せなかった。 1938年7月25日に始まった共和国軍の大攻勢「エブロ川の戦い(英語版)」が失敗に終わったことで、フランコの勝利が決定的になり、同年暮れから国際旅団の中心地となっていたカタルーニャ地方に総攻撃を開始、翌1939年1月にはバルセロナが陥落、3月27日にマドリードが陥落したことにより人民戦線政府は崩壊、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコは内戦終結宣言を発した。これによりスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦によって軍民合わせて数十万人が死亡し、国土の荒廃も著しかった。フランコには同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
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