シュルレアリスムとマルクス主義・共産党
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「ピエール・ナヴィル」の記事における「シュルレアリスムとマルクス主義・共産党」の解説
彼はこのほか、複数の作家・芸術家による毎回のコラム「シュルレアリスム・テクスト」と「夢」の記述、および芸術評論を掲載しているが、ブルトンが編集を一手に担うことになった第4号から同誌をいったん離れ、次は2年半後(1927年10月)の第9-10合併「自動記述」特集号に夢の記述と「もっと良く、もっと悪く」を寄稿したのみである。1927年発表の著書『革命と知識人』所収の「もっと良く、もっと悪く」は、シュルレアリストに国際主義的マルクス主義の妥当性に関する検討を促す内容であり、これは、ナヴィルが1925年頃からマルクス・レーニン主義哲学を研究し始めたことによる。まずはレーニンの著書『なにをなすべきか?』(1902年)、『国家と革命』(1917年)、カール・カウツキーの『プロレタリアートの独裁』におけるボリシェヴィキ批判への反論『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)などに取りかかった。1925年に兵役に服し、オート=マルヌ県ショーモンに駐屯する北アフリカ狙撃兵連隊に配属された際にも共産主義者の隊員との交流を通じて理解を深めた。だが、規律への不服従のためにドゥー県ヴァルダオン(フランス語版)の軍事基地に送られて訓練を受け、1か月後にリーフ戦争下のモロッコに送られる予定であったが、志願してパリ駐屯の部隊に入隊した後に兵役を終えた。 除隊後、共産党(1921年結成)の活動に参加していたジャン・ベルニエ(フランス語版)、マルセル・フーリエ(フランス語版)、ヴィクトル・クラストル(Victor Crastre)らとともに『内戦(la Guerre civile)』と題する雑誌を創刊し、さらに「シュルレアリストに何ができるか」(1926年)を通じて他のシュルレアリストらに文学・芸術の革命を共産主義革命につなげるよう呼びかけた。これに対してブルトンは、『正当防衛』と題する小冊子を発表し、「我々のなかに、ブルジョワジー(中産階級)が手にしている権力がプロレタリアート(労働者階級)の手に渡ることを望まない者はいない。だが、一方で、我々にとって必要なのは、内面生活の体験(実験)を続けることであり、しかも、言うまでもなく、たとえマルクス主義であっても外部からの制御を受けることなく続けることである」と応答した。 だが、これはこの後のシュルレアリスム運動とマルクス主義または共産党との複雑な関係の一端を示すものであり、すでに作家アンリ・バルビュスの小説『クラルテ』(1919年刊行)を契機に共産主義知識人らが起こした国際的な反戦平和運動「クラルテ」および機関誌『クラルテ』の編集委員とシュルレアリストとの間に協力関係が生まれ、シュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者によるリーフ戦争反対の共同声明「まず革命を、そして常に革命を」が共産党の機関紙『リュマニテ』(1925年9月21日付)と『シュルレアリスム革命』誌第5号(同年10月15日付)に掲載されていた。『内戦』誌の刊行もこうした共同企画によるものであったが、シュルレアリストの参加は得られなかった。だが、この後ナヴィルとマルセル・フーリエが『クラルテ』誌の編集を担当すると、まずアラゴンが積極的に寄稿し、次いでエリュアール、デスノス、ミシェル・レリスも参加した。 ナヴィルは1926年にフランス共産主義青年運動(フランス語版)に参加し、次いで共産党に入党。共産主義学生運動の事務局を務め、機関紙『前衛学生(l'Étudiant d'avant-garde)』を編集した。一方、シュルレアリストのうち、アラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレ、ピエール・ユニック(フランス語版)が共産党に入党し、立場を明確にするために「白日の下に(Au grand jour)」と題する小冊子を発表して、一定の条件付きでマルクス主義による革命を主張したが、政治的な関わりを拒否するシュルレアリストらとの対立は深まるばかりであった。ブルトンはこの後1929年に、史的唯物論の立場を取りながらも共産党の方針を批判する『シュルレアリスム第二宣言』を発表。このときナヴィルは、独自の道を歩み始めていた。
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